法華経のこころ(7)

仏の所説を聴くこと、食頃(じききょう)の如しと謂(おも)えり(序品)

「仏さまの説法が、あまりに素晴らしく、まるで、一度の食事時間ぐらいに短く感じられました」。話す側、聞く側の心が一つになった時、人は時間の流れを忘れる。

かつて、取材で長崎県諫早市に住む、当時73歳のT子さんに会った。その際、同席した支部長さんが、私にこう言った。

「今日、T子さんは、お孫さんの運動会なんです。小さい頃、交通事故で両足を骨折し、一度は歩くこともできないと言われた子が、初めて走るんです。でも、取材のため、運動会へ行くのは、やめました。T子さんも、“せっかく記者さんが来てくれたのだから、お役に立ちたい”と言ってくれて……」

申し訳なさで頭が下がった。それほど貴重な時間を、私にくれたのがうれしかった。テープレコーダーのスイッチを入れるにも気合が入った。

被爆体験の取材。原爆の恐ろしさ、そしてその体験が人々から忘れ去られようとしている悲しみをT子さんは、目にいっぱい涙をためて話してくれた。私は、メモをとる気がしなかった。T子さんから一時も目線をそらしたくなかったからだ。

当初、T子さんにお願いした取材時間は、2時間だった。でも、T子さんの声を収めたテープは、その日、120分用で、まるまる2本になった。
(N)

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