法華経のこころ(3)

人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、それにまつわる社会事象や、それぞれの心に思い浮かんだ体験、気づきを紹介する。

但礼拝を行ず(常不軽菩薩品)

「この比丘(常不軽)は、ただ出家・在家の仏道修行者を見れば、それを礼拝するだけでした」。<一切衆生 悉有仏性>という真理の実践は、自分の仏性を見つめ、人の仏性を拝むことにある。

仏性礼拝(らいはい)という言葉を聞くたびに母のことを思い出す。少年時代、ケンカはする、先生には逆らうで、私は手のつけられない“ワルガキ”だった。母が学校に呼び出されたのも二度三度ではない。

そんな私を母は常々「うちは貧乏でお金もないけど、子供が宝物なんだよ」と言って励ましてくれた。決して重荷になるような期待でも、慰めでもない。あるがままの私を認めてくれたのだと思う。自分はかけがえのない存在なんだという意識が、自然と生まれ、どんなに荒れて自虐的になっているときも最終的には自分を裏切れなかった。

最近では、自分に都合の悪い現象が出ると、相手の人を「こんなひどい人でも仏性があるんだから」と自分の見方の非を省みず、無理に感情を封じ込めてしまうことがある。それは、ともすると、その人がもつ本来の良さを看過して、自分本位の人間像を相手に強要してしまうことにもなる。

良いも悪いもない。あるがままでかけがえのない存在なのだ。受ける言葉や態度は、すべて相手の仏性が放つ仏の説法だと受けられる自分になりたいと思う。
(K)

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