栄福の時代を目指して(22) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

国難に次ぐ国難――戦争再開と政体の複合的危機

アメリカとイランの間で合意が結ばれたので戦争終結に至ることを願っていたが、攻撃の応酬が行われて激化しつつある。ついに、アメリカのトランプ大統領は議会に戦争の再開を通告し、イランはホルムズ海峡を再封鎖して、覚書の履行停止を表明した(7月18日)。アメリカの備蓄原油も大幅に減少しているから、このまま戦争が再開されると、世界的に激しいエネルギー危機が生じる。日本はアメリカからも原油を輸入できなくなり、備蓄放出に頼らざるを得なくなる。

私たちがもともと恐れていた事態そのものである。そこで、生活と平和を守るために、「イランとの友好的外交による船舶通過の実現」を求める署名をさらに募り、政府に要請を行うことを予定している。

同時に、国内でも極めて深刻な事態が生じた。高市内閣は、皇室典範改正を強行し、衆参両院でわずか6時間あまりの審議で可決させた。しかも、参議院では最大野党(立憲民主党)をはじめ5会派が反対したため、「立法府の総意」は存在しない。

天皇制は日本の政治体制の中軸的制度だから、このように拙速で強引な方法は、民主主義の観点から許されていいことではない。しかも、その内容は、政治家の私的な思惑で日本の政治体制を改変してしまうような危険を孕(はら)んでいる。つまり、これは政体の危機、古い言葉を使えば「国体」に関する危機と言っても過言ではない。

前回は、戦争について政治哲学の観点から私の考え方を説明した。今回は、皇室典範改正問題への危惧について政治哲学から説明しよう。

天皇制の危機――「ラスト・エンペラー」の恐れ

高市内閣は極右内閣だから、その政策は天皇制を擁護して強化するものだと思う人もいるだろう。しかし、実際にはそうではない。現在、女性・女系天皇について各種調査で国民の7~8割が支持しているのに、この改正によって世論と乖離(かいり)する皇室制度になってしまった。戦後、昭和天皇や上皇陛下、天皇陛下ら天皇家が築いてきた、国民の信頼を掘り崩しかねないのである。

この皇室典範改正により、養子の男児が皇位を継承すると、血縁による正統性が薄れ、国民の心が離れて天皇制の支持が減少して、危機が訪れる可能性が高いと私は危惧している。

なぜなら、現在、皇室復帰が論じられている旧宮家は、約600年前の室町時代に天皇家から分かれた家であり、現在の天皇陛下からみて36~38親等の隔たりがあるという。民法上の親族は6親等までだから、こうなると、ほとんど血縁というよりも、他人に近い(単純計算では常染色体の遺伝子共有率は約687億~2750億分の1)。そのような家から15歳以上の男性を養子にしても、一般人としての教育を受けて育っているわけだから、現在の天皇家のような品位は望めないだろう。つまり、血筋がごく薄い上に、品格も必ずしも期待できない。その男子が皇位を継承しても、天皇家が別系に移った印象が生じ、これまでのような国民からの敬慕は維持できないのではなかろうか。

さらに、麻生太郎自民党副総裁は、自民党の「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」の会長として、この展開を主導した。ところが、世間が知らないうちに、その実妹がいつの間にか新たな宮家(三笠宮寬仁親王妃家)をなしており、その娘も宮家(三笠宮家)を継承していた。その上に、今回の決定(皇室経済法改正)で、これらの皇族費が大幅に増額された(三笠宮家は約2倍の2135万円)。そもそも、未婚女性親族が宮家の当主になることも、皇族妃が夫の死後に宮家を創設するのも、旧皇室典範制定(1989年)後に前例がないので、初めて知った人々が訝(いぶか)しく思っている。

その上に、これらの女性宮家が養子を迎えて、その男児が皇位を継承するという可能性が生じたことになる。野田佳彦元首相が「いくらなんでも、藤原道長じゃないか」(6月22日)と言ったように、これでは、麻生家が天皇の外戚になってしまう。もともと、今回の皇室典範改正は皇族数を減少させないための議論とされていたのに、皇位継承まで可能にするように変化したのは、麻生氏の意向が大きく働いているという。つまり、自分自身の野望によって皇位を政治的に操作しようとしている疑いがあるわけだ。

このような事態が生じれば、国民の心が天皇制から離れてしまうのは、想像に難くない。男系・男子天皇制を主張して皇室典範の改正を推進している人々は、天皇制を尊重していると言いつつ、実は墓穴を掘っているように思えるのだ。

今回の皇室典範改正を巡る議論を見聞しながら、私自身はふと「ラスト・エンペラー」という映画を思い出した。清朝最後の皇帝を描いた映画だが、このままでは、天皇制そのものが歴史的終焉(しゅうえん)を迎えるのではないかという予感である。今回の皇室典範改正によって皇族への親しみや尊敬が失われれば、共和政体に移行するという道も論理的にはあり得る。専門的に言えば、倫理的な徳義共生主義(コミュニタリアニズム)は西洋で生まれた政治哲学だから、上記の議論(共和制を主張する共和主義)とも両立し得る。しかし、日本の文化や伝統を尊んで天皇制を大事に思う人々は、このような懸念が現実化しないように、最善を尽くすべきではないだろうか。

徳義共生主義の哲学的基礎――生成する本質と目的

私は、哲学的には、理念や価値を重視している。古代ギリシャの哲学者プラトンやアリストテレスは、イデア(実在理念)や形相という言葉で、永遠にして不変の理念が存在すると主張した。これはしばしば「本質」と呼ばれている。

今日の哲学では、世界は生成して変化するから、不変の「本質」は存在しないという考え方(反本質主義)が有力だ。でも、実際にはプラトンも、後期には理念の生成変化を認めてアリストテレスもそれを受け継いだ。だから、生成変化があるという理由だけでこれらの思想を批判するのは妥当ではない。

私は、(持続的で変化が少ないゆえに)「本質」と見なせる深層の構造と、しばしば変わる制度や過程が存在すると考えている。たとえば、男性・女性という性的相違やその意識は、そう簡単には変わらない。その点では変化の少ない「本質」である。しかし、「ジェンダー」と言われるように、時代や歴史とともに概念は変わることがある。だから、本質は存在するが、生成し得る。このような考え方を私は「生成的本質主義」と呼ぶ。コミュニタリアニズムの淵源(えんげん)は、プラトンやアリストテレスだから、彼らの思想を「生成的本質主義」として捉え直し、それに基づく「徳義共生主義」を提唱しようと考えている。

もっとも、今日のコミュニタリアニズムでは、必ずしも「本質」の議論に立ち入らずに、(やはりアリストテレス哲学に基づいて)制度の「目的」から考える。以下では、制度を支える深層の構造を「理念・本質」と呼び、それを具現化しようとする制度が歴史の中で目指すところを「目的」と呼ぶ。以下ではこの双方の観点から考えてみよう。

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