共生へ――現代に伝える神道のこころ(11) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)
あらゆる場所に神を祀り安寧を願う 現代社会における鎮守の神の在り方
明治四十五(一九一二)年、文部省発行の『尋常小學唱歌(第三學年用)』(音楽教科書)に掲載された「村祭」の歌詞の冒頭に、「村の鎮守」という言葉が登場する。「村祭」は、GHQ(連合国軍総司令部)による占領下の昭和二十二(一九四七)年に三番の歌詞の一部に改変がなされたものの、戦後も長く歌い継がれてきた唱歌であり、読者の方の中にもかつて、小学校時代にこの唱歌に触れた方がいるだろう。
唱歌が制定された当時と比べ、現代は電車やバス、自家用車など移動手段が増え、その利便性も向上した。それにより、都会や田舎を問わず住居から遠く離れた地に通勤・通学することも可能となり、平日は仕事や学校を終えて自宅に就寝のために帰るだけという日々を過ごす人も多い。こうした社会状況では、普段、自身が住まう地域に目を向ける時間も限られ、居住する地域を守る「村の鎮守」というフレーズもなかなか実感し難い人も少なくないように思われる。
その一方で、一昨年の春以来、新型コロナウイルスの感染拡大の中で「三密」を避けるため、会社への通勤よりも自宅でのリモートワークが推進されるようになったことで、各々(おのおの)が住まう地域へ目を向け、地域の魅力を再発見する機会を得た方々もいるのではないだろうか。
「鎮守」とは、「その地域(の住民)を災害から守る神」(『新明解国語辞典』第四版)とされ、いわゆる地域所在の「氏神さま」と呼ばれる神社がこれに相当する。しかし、「鎮守」とされる神を祀(まつ)る社(やしろ)は、何も氏神の神社に限定されるものではなく、我が国においてはさまざまな場所で「鎮守」の社の存在をうかがい知ることができる。中には、歴史的経緯から見て興味深いものもあり、今回は「鎮守」の社について述べてみたい。
慶応四(一八六八)年三月、政府から出された神仏判然令に基づいて、多宝塔や鐘楼(しょうろう)、堂宇(どうう)、鰐口(わにぐち)、仏形の木像など神社の境内、社殿に見られた仏教的な色彩のある建物・仏具等は除去されることとなった。神仏判然令については、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起きたことから、法令の本来の意図とは異なる動きが起きたことも事実であるが、そもそも神社の中にある仏教的な色彩を除去することが主たる目的であった。そのため、寺院の境内に仏教を守護する護法善神(ごほうぜんじん=大黒天や吉祥天など天部と称される神々)などを祀った堂宇は、分離独立・移転したものもあったが、その多くは廃絶されることなく存続した。これが現在も寺院境内にある鎮守社と呼ばれる社である。
例えば、平安時代初期の薬子(くすこ)の変で、空海が嵯峨天皇の勝利を祈禱(きとう)した京都府の東寺(教王護国寺)にある鎮守八幡宮のように、歴史的にも著名な鎮守社もある。同じく相国寺にも境内に宗旦稲荷社(そうたんいなりしゃ)、弁天社が鎮座している。東大寺大仏殿の東、三月堂(法華堂)のすぐ南にある手向山(たむけやま)八幡宮も、東大寺を守護するため天平勝宝元(七四九)年に大分県の宇佐神宮から勧請された由緒のある鎮守社の一つである。
寺院以外にも戦国時代から江戸時代にかけて、大名が築いた城郭にも鎮守社が存在する。江戸城には最初の城主である太田道灌が築城の折、鎌倉時代に江戸氏が山王社を江戸郷の守護神として祀っていた経緯から、山王社を川越から勧請して城内の鎮守としたことが知られる。この山王社はのちに江戸城内から隼町へと移され、さらに赤坂の溜池山王へと遷座され、江戸城の裏鬼門を守護する皇城の鎮めの社となった。これが現在の日枝神社である。
同社は、国政の中心地である千代田区永田町に鎮座する神社でもあることから、国会議員らの参詣や祈願の多い社としても知られている。このほか、江戸城には、西の丸の東北にある紅葉山に、元和四(一六一八)年に東照宮(現存せず)が創建されていたことが知られる。慶長、元和にかけて江戸城が増築された際には、神田神社を移転して江戸城の鬼門を守護し、以後、江戸総鎮守として広く尊崇されるようになったのである。