清水寺に伝わる「おもてなし」の心(3) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)
吉岡秀人先生の話
「父と子と聖霊のみ名によってアーメン」。親に言われるがままカトリックのノートルダム学院小学校に入学し、給食の際に同級生と一緒に祈りを捧げていたことを、今は懐かしく思い出す。恥ずかしながら、生まれ育った自身の環境に抵抗感が強く、思えば自分の寺ではなく、この小学校での給食が、祈りの習慣の原点であったと感じる。
今ではWCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会の導きによって、日々多くの諸宗教の祈りの現場に立ち合うご縁に恵まれている。なんとも不思議なものだ。
所属する青年部会では年間を通して、たくさんの行事を開催している。その一つに、共に学ぶ機会として、公開学習会がある。
数年前、日本発祥の国際医療NGO「ジャパンハート」代表の吉岡秀人先生に講師としてご登壇頂いた。先生の長年にわたるご活躍についてたくさんの紹介があり、東南アジア諸国を中心に、医療現場の最前線に立ち続ける先生の話には、圧倒的な説得力と発信力があった。特に印象に残っている話を一つ紹介したい。
同NGOの活動がテレビ等で取り上げられていることもあり、先生のもとには多くのボランティアが集う。皆が異口同音に「人の役に立ちたい、誰かを助けたい。それを自身の夢や目標としてここに来ました」と伝えるそうだ。ジャパンハートは彼らをお客様扱いする暇がなく、日々、懸命に目の前の命と向き合っている。ボランティアにとっても過酷な現場が続き、ほどなくして不平不満の声が聞こえ始める。そんな時、吉岡先生はこんな話をするそうだ。
「あなた方は人の役に立つ、誰かを助ける、それを自身の夢としてここに来たと言っていた。今まさにその夢がかなっているではないか。不平不満どころか、むしろそのことを喜ぶべきではないのか」
こう言われて多くのボランティアが初めて気づく。自分は「価値のある人間」「意義のある人間」であることを自覚したい、その手段として人を助けるという選択をしたのではないか。そうであるならば、助けを求めている目の前の人々のお陰で自身の選択を実行できているのであり、「助けている」のではなく「助けさせてもらっている」のではないか、と。こうして多くの人が、誠の謙虚さをしっかり身につけた本物のボランティアとして生まれ変わる。