法華経のこころ(13)
人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、記者の心に思い浮かんだ自らの体験、気づき、また社会事象などを紹介する。今回は、「方便品」と「観世音菩薩普門品」から。
「舎利弗(しゃりほつ)、重ねて仏に白(もう)して言(もう)さく、世尊、唯(ただ)願わくは之を説きたまえ」(方便品)
「止みなん、舎利弗」と釈尊は舎利弗の誓願を三たび制した、「三止三請」といわれるこのくだりを読む時、私は必ずといってよいほど思い出す歌がある。
「すてられて なお咲く花の あわれさに またとりあげて 水あたえけり」(歌人・九条武子)。記者になったばかりの頃、ある教育講演会で講師が引用した歌である。歌は平易である。捨てられても、つまはじきにされても、一生懸命生きよう、花を咲かせようとする、その一途さに作者は感動して詠んだ歌であろう。講師は、この一途な向上心こそ、教育の原理だと断言した。
そして、こう続けた。「教師が子供を教えるのではなく、医者が患者を治すのでもない。どんな立派な教師でも、子供に意欲がなければ、教えることはできないし、患者に生命力がなければ、たとえ名医といえども治すことはできない」と。
自ら求める心、向上心がいかに大切かを教えてくれる経文であり、歌であって、私は忘れることができない。聖書にも「叩けよさらば開かれん」とある。何事も自ら求める心が大切、と改めて教えて頂いた。
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※舎利弗(しゃりほつ)、重ねて仏(ほとけ)に白(もう)して言(もう)さく、世尊(せそん)、唯(ただ)願わくは之(これ)を説きたまえ
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