法燈継承 30年(3) 会長就任20年~30年の庭野会長の歩み

庭野会長の法話から

仏性

私が学ばせて頂いた中では、悉有(しつう)は仏性――人間も、動物も、植物も、この世の中にあるあらゆる全てのものが、仏性であるとされています。存在しているものは、悉(ことごと)く仏性であり、皆、そのように生まれてきたということです。私たちの体のどこかに仏性があり、修行し、それが芽生えて、初めて仏になるということではなく、最初から仏性として生まれてきて、あとは仏法という真実の道理を、私たちがいかに自分のものにするか、それだけだということであります。皆が、仏そのものとして生まれてきたとも言うことができます。このように解釈し、受け取らせて頂くと、私たちはお互いさまに、この世のいろいろな苦悩を乗りこえていく力を授かって生まれてきたと見ることができるのであります。
(13年7月、朔日参り=布薩の日=式典)

「一食運動」の実践

実際に一食を抜いて、空腹感やひもじい思いを味わう――そうした体験をすることが、「一食(いちじき)運動」の特長であり、素晴らしいところです。世界には、その日の食べる物さえなく、慢性的な飢餓に瀕(ひん)しながらも、精いっぱい生きている人が大勢います。現実を知れば知るほど、「本当に大変だ」「何とかしてあげたい」という気持ちが湧いてきます。それは、人間の本性の発露(ほつろ)であり、誰もが持ち合わせている心です。相手の苦しさ、ひもじさを全て分かることはできませんが、せめて一食を抜いて、一歩でも近づこうと努力していく。そのことを通して、相手への理解を深めると同時に、自分の本性、仏性に気づいていくのだと思います。
(15年、「一食を捧げる運動」40年の節目を迎えて)

有り難し

法句経に「人の生(しょう)を受くるは難(かた)く、やがて死すべきものの、いま生命(いのち)あるは有難(ありがた)し。正法(みのり)を耳にするは難く、諸仏(みほとけ)の世に出(い)づるも有難し」という有名な一節があります。人が生命を受けることは難しく、必ず死ぬことになっている者が、いまたまたま命があるということは、有り難いことだ。生命を受けたとしても、その生きている間に、正しい教えに接することは、稀(まれ)で有り難く、仏が満ち満ちている世界、地球上のこの世に生まれてくることも難しいことである――このような意味合いです。日ごろ私たちは、感謝の気持ちの表れとして「ありがとう」と言いますが、その語源は、この「有難し」の一節からきています。つまり、一番のもとは、人として生まれてくることが有り難いということであります。また私たちは、自分の力で生きているのではなく、両親や祖先はもちろん、周囲の人々、太陽の光、水、空気、動植物など、宇宙の一切合切のお陰さまで生かされています。(中略)何か特別なことがあったから感謝するというのではなく、そうしたいのちの実相(ありのままのすがた)に感謝をするのが、釈尊が教えてくださる感謝であります。
(17年、『年頭法話』)

人を植える

教団創立から一世紀を展望して、人材育成――人を植える――という根本命題に全力を尽くしていくことが、私たちの大事な務めであります。では、どのような人を育成していけばいいのでしょう。それは「仏さま及び開祖さま・脇祖さまの人を慈しみ思いやるこころ、人間本来のこころ(明るく 優しく 温かく)を持って、菩薩道(人道=じんどう)を歩む人」にほかなりません。では、どのようにすれば、そうした人づくりができるのでしょう。それは、「ご供養」「導き・手どり・法座」「ご法の習学」という「三つの基本信行」を徹底することです。(中略)人間は、先々のことが気になると、つい目の前のことに力が入らなくなります。しかし、私たちの人生の中で、最も重要なのは、いつも「いま目の前にあること」です。なぜなら、私たちが使える時間は、過去でもなくて、未来でもなく、「いま」しかないからです。いまこの瞬間の出来事に一つ一つ丁寧に取り組む――それが積もり積もって、人生を充実したものにしていくのです。
(18年、『年頭法話』)

即是道場

本会は、在家仏教であります。「道場」というと、つい、大聖堂をはじめ教会、地域道場と思いがちです。しかし、在家仏教では本来、自分が住んでいる所、居る所、働いている所が道場である、一番厳しい道場なのだと教えています。ですから、それぞれの場で、いかに仏さまの教えを実践するかが大事になります。
(19年12月、釈迦牟尼仏ご命日=布薩の日=式典)

悲しむことがあってこそ

他の人が困っている姿を見て悲しむことは、人間の情緒の最も尊い働きの一つといわれています。人間が他人のことを悲しめるようになるには、よほど精神が発達していなければできないことだというのです。人が自分の親、兄弟姉妹、子供ばかりでなく、友人のこと、世の中のこと、もっと大きくは国のことを悲しむようになってこそ、初めて文明人といえるとのことです。そうした人がいるところこそ文明国であるとされています。ですから、悲しむことは、本当に尊い人間の精神の働きであり、とても大切にしていかなければなりません。(中略)人間は、もののいのちが無視され、犠牲にされるのを悲しく思います。愛すれば愛するほど、そうしたことは悲しいものです。(中略)こうしたことからも、佼成会で苦しんでいる人をお導きしたり、教会においで頂いたり、いろいろと手どりをしたりすることが、いかに大事なことかが分かります。教会には、教会長さんはじめ、支部長さん、主任さん、組長さんもおられます。そうしたお役を通して、人々のために手を差し伸べていく菩薩行が、いかに尊く、大事なことであるかということです。
(20年1月、釈迦牟尼仏ご命日=布薩の日=式典)

省心

コロナ禍の中で、私たちは、いままでのことをいろいろと省(かえり)みることが大事だと思います。一番省みなければならないのは、自分の心です。心を省みることを通して、コロナ禍の時、またこれから、どういうふうに生きていくのか、生きていかなければならないのかを考える――それが『省心(せいしん)』です。(中略)「省」には、心を省みるということのほかに、物事を「省く」という意味があります。私たちは、日頃しなくてもよいことをして、時間やお金を無駄に使っていることがたくさんあります。『省心』とは、自分を省みることと、物事を省くことです。そして、本当にしなければならないことにしっかりと力を入れていくことも含まれます。
(21年、御親教)