立正佼成会 庭野日鑛会長 10月の法話から

いつも学びの姿勢を

中国の古典『易経(えききょう)』には、こういう言葉があります。

「天行は健なり。君子以(もっ)て自彊(じきょう)息(や)まず」

「天行は健なり」とは、天の運行は健やかで止(や)むことがないという意味です。「君子」とは、人間としてしっかりとしたものをよく学び、それを人生に生かしていく方のことです。そのような君子も、自ら彊(つと)めて学び、休むことはないというのが、「君子以て自彊息まず」です。

天の運行は健やかで止むことがない――それと同じように、しっかりとした自覚を持った人は常に正しいことを学んで休むことはない。常に学んでいくということです。

先ほどの、時間を無駄にしないという中にも、休むことなく学び続けていかなければならないことが込められています。私たちの人生に、直接当てはめていくことが肝要です。

また、これは、日本の佐藤一斎(江戸時代の儒学者)が記した「言志四録(げんししろく)」にある言葉です。

「少(わか)くして学べば壮にして為(な)すあり。壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず」

人間は若い頃から学んでおくと、壮年になり、しっかりと社会で働くようになった時にいろいろなことができる。そして壮年になって、そこでまた学ぶと、人は老いても衰えない、仕事もしっかりできる、世の中に対して影響を及ぼすことができるという意味です。さらに、「老いて学べば死して朽ちず」とあります。たとえば、その人が学んだことを本に著すことがあれば、のちの人のためにもなります。「死して朽ちず」となるわけです。

真理というものを学び、身につけて、また飽きることなく、休むことなく学び続ける。それが人間の一生です。
(10月15日)

画・茨木 祥之

ごく自然に信仰を

10月13日に、日蓮ご聖人の遠忌(おんき)法要がありました。日蓮ご聖人が、信仰、信心について、ズバリ私たちに教えている言葉があります。

「飢へて食(じき)を願ひ、渇(かつ)して水をしたふが如(ごと)く、恋しき人を見たきが如く、病に薬を頼むが如く、みめかたち良き人・紅(べに)白粉(しろこ=おしろい)をつくるが如く、法華経には信心を致(いた)させ給(たま)へ。さなくしては後悔あるべし」

おなかがすいて何か食べたい。のどが渇いて水が欲しい。「恋しき人を見たきが如く」ですから、恋人を見たい。あるいは、病気の時は薬を飲んで治りたい。また、女性がお化粧をするということでしょうかね。そのように、信心とは、本能的にならなければならないといわれるのです。

おなかがすいて何かを食す、のどが渇いて水を飲むというのは自然でありますから、極言すれば、それと同じように、自然にならなければ本当の信心ではないということです。

私たちはつい、親から勧められたから、人から言われたから、またご利益があるからということで、信心をしている傾向があります。そういうのは不純なことであり、そんなことだと後悔あるべしというのが、日蓮ご聖人のお言葉です。

日蓮ご聖人の頃は「信仰」とは言わないで「信心」、心を信ずると表現されています。「信仰」という言葉は、明治以降に使われるようになったとも聞きます。日蓮ご聖人のお言葉は、私たちの「信仰」のあり方についてズバリ言われているような感じがしてなりません。常に学び、常に前進をするような「信心」をさせて頂きたいものです。
(10月15日)

物事を深く知る人とは

中国の老子(春秋時代の思想家・哲学者)の言葉だそうです。

「知る者は言わず、言う者は知らず」

とても厳しい言葉です。本当に知っている人は言わない。本当のことは、とても言葉では表現できない。だから、「言う者は知らず」――なんだかんだと言う者は実は何も分かっていないということです。

私などもお話をする機会が多いわけでありますが、常に自分の言葉を反省する意味において、こうした老子のお言葉も常に大切にさせて頂いています。
(10月15日)

世界の平和は足元から

私たちが信仰を通して、仏法を学び、身に体して実践をする、その一番の足元はやはり「斉家(せいか)」――家を斉(ととの)えることに尽きます。家が斉って初めて自分のいる社会が平和になり、国が平和になり、世界が平和になっていくのです。

まず自分がしっかりとした“方程式”を学び、それを実践して、自分の足元から平和への生活をしていくことが最も大事です。そうした意味で、お互いさまに「斉家」に努めることが大切です。
(10月15日)