立正佼成会 庭野日鑛会長 12月の法話から

昨年12月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

毎日が新しいいのち

「新生こゝに始まる」という言葉を述べた人がおられます。

よく考えてみますと、私たちの体も心も、毎日変わっています。体は新陳代謝していますから昨日の自分ではありません。今日はもう、昨日とは違う新しいいのちが、今、ここにいるわけです。

そういう意味で、昨日の私は、今日はもういない。私たちはお互いさまに毎日、「新生こゝに始まる」という心を持って日々を過ごすことができます。
(12月1日)

今ある不思議をかみしめて

世の中のことが全て分かる人はいません。分からないことがいっぱいありながら、その中で私たちは今、生きているわけです。ですから、禅の世界では、こういう言葉が使われているそうであります。

「魚(うお)行(ゆ)いて魚に似たり」「鳥飛んで鳥の如(ごと)し」

魚が泳ぐ。それは当たり前のことでしょうし、鳥が空を飛ぶのも当たり前でしょう。けれども、魚が泳げること、鳥が空を飛べることは知っていても、どうして泳げるか、どうして飛べるかという深い意味合いは、大人でも分からないわけです。

魚が海を泳いでいても、その海の全体を知って泳いでいるわけでもない。鳥も空の全体を知って飛んでいるわけでもないということです。

禅の言葉、「魚行いて魚に似たり」「鳥飛んで鳥の如し」から、私たちはあらゆることを知っていて生きているのではなくて、知らないまま生きている――そういう分からない、不思議な世界にお互いに今、生かされて生きているということを教えて頂いています。
(12月1日)

自然とそうせざるを得ない

仏教では、人生の目的や意義を、いろいろと教えてくださっています。これは、私の大学時代の師匠で大乗経典の『華厳経(けごんきょう)』の専門家であられた方に教わったことの一つです。人生の目的・意義について、『華厳経』ではどう言っているか、教えてくださっています。

『華厳経』では、「如来は何故(なにゆえ)に悟りを完成してこの世に現れたか」という理由をいろいろと教えているそうであります。それは、結局、「真実を説いて人々を教化し、一人残らず救わんがためである」という一言に尽きるということです。では、なぜ如来は、仏は、人々を救わなければならないのであるかというと、それは“自然にそうせざるを得ないから、そうするのだ”と、説かれているというのです。

特に難しいことは言われていない。“自然にそうせざるを得ないから、そうするのだ”と説いてある。これを如来、仏さまの本願力、本当の願いと表現します。その力によって、仏さまは悟りを開かれて、一切の衆生を救いたいという心でこの世に現れたと言えるわけです。

ですから、世の中に生まれてくることの目的、意義は何かというと、人生の根本問題の解決の鍵を仏さまから頂いて、実践しながら生きていくことに尽きるわけです。
(12月1日)

「修行」と「成仏」

大乗仏教では「一切衆生(しゅじょう)悉有(しつう)仏性」ということで、人間だけでなく、この世に存在するあらゆるものが仏性そのものということですから、もう成仏していると見ているわけです。成仏しているのであれば、修行する必要はないのではないかと言えるわけですけれども、『華厳経』には、なぜ修行しなければならないかが説かれています。

「『華厳』の立場では修行が必要であるというのではなくして、修行という立場から見れば、総(すべ)てが修行であり、成仏という立場から見れば、総てが成仏し終(おわ)っておるというのであります。すなわち修行と成仏とが同じものの表と裏とでありまして、常に修行しつつ、常に成仏し終っているのであります。もっと具体的に申しますならば、われわれの日常生活がそのまま仏道修行であり、それが同時に仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)、すなわち仏の衆生救済の活動であるというのであります」。このように教えられています。

ですから、先ほどの体験説法にありましたように、私たちは「自分が至らない」と思って、いろいろとお役もさせて頂いていますけれども、そうしたことも仏道修行であると同時に、日常生活そのままが仏道修行であるということです。日常の生活の中でなすこと、行うこと全てが仏の作用で、これは人さまのためにもなっているという捉え方です。特に「修行が大変だ」「お役は大変だ」と思わずに、そのお役をしっかりと素直に受けて日常生活をさせて頂く、それが仏の衆生救済の活動と教えられているわけです。

教会でお役をされている方の中には、「これでいいんだろうか」と思いながらされている方もおられると思います。私もそうであります。しかし、お経の中で「それでいいんだ」と言われていますから、これでいいんですね。日頃のそうしたお役を素直に受けて、人さまに喜ばれる人間であることが大事だということに結局はなるわけです。
(12月1日)

仏さまと一体の私たち

私たちは仏教の信仰者として、仏さまをお参りします。仏像に向かって合掌礼拝(らいはい)します。礼拝にどういう意味があるかと考えてみますと、合掌をすることによって、仏さまに帰命(きみょう)する、南無する、帰依するということです。

そこでは、人(私たち)と帰命される仏とが別々にあるように思えますけれども、実は、凡仏(ぼんぶつ)一体、凡仏不二(ふに)とでも申しましょうか。仏さまと一つの心になって、凡人である私たちと仏さまは一体だと、もともとは一つのものだと気づくことが、信仰という上ではとても大事であります。

仏さまと私たちが一つである、不二であることを体験するために、行為として合掌礼拝することで、凡仏不二だということが、そこに形としてあるわけです。これは一つの方便であるのですね。(凡仏が)一つであることをここに表しているのですから、私たちは仏さまをお参りする時の合掌礼拝を大事にしなければならないと思います。
(12月8日)

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