立正佼成会 庭野日鑛会長 9月の法話から

9月に大聖堂で行われた式典から、庭野日鑛会長の法話を抜粋しました。(文責在編集部)

忙しい中にあっても

私は携帯電話を持っていませんから、人からメールを頂くことがありません。現代人は、いろいろな人からメールが来るでしょうから、とても忙しいのではないかと思います。

「忙しい」という字は、「忄」(立心偏、心の意)に「亡(ほろ)ぶ」「亡(な)くなる」と書きます。これは心が亡ぶ、亡くなるということです。人間は忙しいと、どうしても目の前のことにとらわれてしまい、心が亡くなる、亡んでしまうことにもなりかねません。しっかりとした心を常に保つためにも、仏さまのみ教えを通して、いつも正しく物事を判断できる人間になっていくことが望ましいと思います。
(9月1日)

日常生活が修行の場

ドイツのゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。詩人、劇作家)がこう言っています。

「空が青いということを知るために、世界をまわってみる必要はない」

今日もとても空がきれいで、青空が見えていますけれども、世界をまわらなくても、日本にいても青空は見えますので、本当にそう言えます。私たちが真理、ご法を学ぶことも、別に外国に行かなくても日本にいて、真理がどういうものであるか分かります。この場でしっかりと仏さまの教えを自分のものにしていけるということです。

私たちの信奉する法華経では、修行は日常生活の中にあると説かれています。ですから、私たちがいる所、どこでも、いつでも、誰にでも、修行ができるということです。そういう意味で、日頃の生活の中に仏さまの教えを生かしていくことが私たち自身の安心にもつながっていくわけです。
(9月1日)

修行と悟りは一つ

私たちは、修行をしなければ悟りが頂けないと思いがちですけれども、道元禅師がおっしゃっていることをよくかみしめますと、修行することと悟ることは一つなんだ、ということです。

例えば、私たちが仏さまのお経をあげている時は、自分がお経典をあげる(読誦=どくじゅ)という実践をしているのですから、そこに修行と仏さまの悟りとが一つになっていると言えます。だから、修行をしていることと悟りを頂いていることは一つであり、それが永遠に続いていく、それが成仏なのだということです。ですから、(特別な)修行をしなければ悟りを頂けないということではないのです。

私たちは、「自分は至らない」とよく言いますけれども、決してそうではありません。仏さまのみ教えを通して、常に自分のできることを修行し、その中から悟りを頂いていくことが大切なのです。
(9月1日)

全ての人の幸福を

お釈迦さまは私たちに、闇(やみ)を歩く時の灯火(ともしび)として真理を用いなさい、真理を支えとして生きていきなさい、とおっしゃっています。教えを日常生活の中で生かしていくということです。

法華経を読誦する時、私たちは最後に、「願わくは此(こ)の功德(くどく)を以(もっ)て 普(あまね)く一切に及ぼし 我等(われら)と衆生と 皆共に佛道を成(じょう)ぜん」と「普回向(ふえこう)」を唱えています。この一句は、法華経の菩薩の精神を最も簡明に表すものであると教えて頂いています。

自分一人の解脱などという問題ではない。この功徳は自分のためのものではなくて、世のため人のためのものである。願わくは、これによって全ての衆生と共に成仏したい――というのが、この「普回向」の精神です。

それはちょうど、宮沢賢治が言っておられる「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということを示している言葉であります。
(9月1日)

私たちに具(そな)わる菩提心

江戸中期の慈雲(じうん)尊者という方が、こういう言葉を述べています。

「菩提心とは今新たに発起する事にあらず。本来の自心なり」

本来の本心(自心)とは、人間の本来の心、人間の心そのものということです。人間の心には元々、菩提心があり、それが湧き出てきて、発心をする、菩提心を起こす。このような意味合いです。言い換えれば、人間には、仏性もあって菩提心もあって、その上に修行をさせて頂くという意味です。

そうしたことをしっかりと自分の中に持って、仏さまの教え、法華経の教えを胸に、精進させて頂きましょう。
(9月10日)

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