バチカンから見た世界(103) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

教皇のイラク訪問を前に

ローマ教皇フランシスコは、3月5日から8日までイラクを訪問する。70人ほどの国際記者がバチカンで新型コロナウイルスワクチンの接種を受け、随行する。2人の日本人記者も含まれている。滞在中、イスラーム・シーア派の最高指導者であるアヤトラ・アリ・シスタニ師と懇談する予定になっている。国内だけでなく、湾岸諸国のシーア派ムスリム(イスラーム教徒)から敬慕されている宗教指導者だ。

イラクは、国内紛争が周辺諸国にも広がりを見せている。さらに同ウイルスの感染が拡大。2月28日現在、同ウイルス感染症による死者は1万3383人。累計感染者数は69万2241人に上る。首都バグダッドで教皇を出迎え、随行する予定のイラク教皇大使のミツジャ・レスコヴァール大司教も感染したというニュースが28日、バチカンに届いた。

緊迫した状況下だが、それゆえに教皇のイラク訪問が国際世論を喚起し、和解や対話のきっかけになるのではないかと期待が寄せられている。そうした中、バチカン日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」は12日、教皇が3月6日に訪問するイスラーム・シーア派の聖地ナジャフにまつわる心温まるエピソードを紹介した。

同国では、湾岸戦争(1990年)とイラク戦争(2003年)、またモスルを中心にテロによる恐怖で支配地域を広げた「イスラーム国」(IS)を名乗る過激派組織(スンニ派を主張)の影響で、医療制度を含む国家体制が崩壊の危機に瀕(ひん)している。そうした状況が影響して同ウイルスに関する医学情報が国民に行き渡らず、同ウイルスが流行し始めた昨春、同感染症で亡くなった人は埋葬された土地で感染を拡大させるという噂(うわさ)が広まったという。その結果、各地の墓地が、同感染症による死者の埋葬を拒否するようになった。

ナジャフ在住のタヒール・アル・カクアニ氏は、「テレビで恐ろしい映像を見た。病院の外に、遺体安置所から出されて誰も引き取らない遺体が放置されている映像だ。遺族は埋葬する墓地がなく、絶望していた」と証言している。

同氏は、ISがモスルを中心にイラク全土の3分の1を実効支配していた時、シスタニ師を精神的な指導者と仰ぎ、シーア派によるIS掃討作戦を実行する部隊の隊長を務めた人物だ。同ウイルスの流行後、彼はシスタニ師に同ウイルス感染症で亡くなった人々を埋葬する特別墓地の開設を提案した。

数日後、シスタニ師から返答が届いた。それは、聖地の墓地である「ワディ・アル・サーラム」(平和の谷)に隣接する600ヘクタールの土地を「新しい平和の谷」と名づけ、同ウイルスによる死者を埋葬する墓地にするというものだった。

国内各地から遺体が次々と運び込まれ、短期間のうちに数千人に達したという。医療チームが組織され、イスラームの慣習に従って遺体を洗い、白装束を着せ、埋葬した。墓掘は、IS掃討作戦に参戦した元兵士たちが志願した。

またシスタニ師は、墓地がシーア派聖地の一部であるにもかかわらず、スンニ派や諸宗教の信徒たちの埋葬を認め、無料で開放するようにと指示した。アルメニア人のキリスト教徒であるアリク・サハク・ディルタル氏は、同ウイルス感染症で亡くなった父親の埋葬先がなく、棺(ひつぎ)を車に乗せて多くの墓地を回った末に同墓地へたどり着いた。同氏は、「聖地のボランティアが、尊敬の念を持って敬虔(けいけん)に父の遺体を扱い、防護服を着た医師が父の胸の上で十字を切ってくれた。それだけでなく、埋葬を遠く見守ることしか許されなかった私に、その時に撮影した映像を提供してくれた」と感謝を述べている。

今でこそ、同ウイルスについての医学的な知識が伝わり、根拠のない噂は払拭(ふっしょく)されて、「新しい平和の谷」に埋葬を希望する人はいなくなった。しかし、シーア派の聖地から発信された人間生命の尊厳を大事にするメッセージは残った。人間生命は死によって終わらないため、永遠の生命がこの世で一時的に宿った体に対し、敬意を持って埋葬する。こうした諸宗教に共通する姿勢は、「万教同根」「異体同心」の教えでもあった。