栄福の時代を目指して(1) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
「栄福の時代」を目指す学問――政治経済学と心理・教育・福祉などの実践学
もっとも、大部分の人にとっての最大関心事は、包括的学問体系よりも、日常の具体的な生き方や考え方だろう。これに指針を与えられなければ、「幸せを実現する学問」にはなり得ない。もちろん政治経済学も、そのための大事な一部であり、人々の幸福をマクロな方法で増進するために必要不可欠だ。前寄稿の最終回には、父との会話を通じて、この目標の実現のために政治学を志したことを書いた。でも、同時に養育・教育・心理・医療・介護といった領域での知見や洞察も、個々人の幸せや健康を実現するために必須だ。現在の言葉を用いれば、これらはケアについての学問だから、ケア学ということになる。
※ケア学:広井良典編、講座ケア、全4巻(ミネルヴァ書房)などを参照
幸い、ポジティブ心理学は、心理学に起点があるだけに、これらの領域における研究を中心としている。そこでこれまでも少しずつ書いてきた。でも、多くの人々の関心と必要性を考えれば、もっと本格的に述べていく必要があるだろう。私の学問的研究の中心は、ポジティブ心理学の洞察を政治経済学に生かすところにあるのだが、何といっても個々人の幸福にはこれらの領域における人生や生活の知恵や指針が不可欠だからだ。
そのためにもエッセー風の叙述は有用だ。ポジティブ心理学自体が新しい学問であり、これらの領域への科学的展開も始まったばかりだから、確実なデータの蓄積が不十分な主題も多い。でもそういった事柄についても、既存の研究に加えて、自分自身の経験にも支えられた知見を述べることが可能だ。これまでの人生において、私もこれらの主題について数々の経験を重ね、辛酸をなめたこともある。さまざまな人々の光と影も見聞してきた。これらについてエッセー風に言及しつつ述べることは、同じような問題に悩む人々にとって手助けになるに違いないと思う。
そもそも、ポジティブ心理学は、幸福や健康が最大の主題や目的であり、科学的にはそれをウェルビーイングと表現している。最近は、それをフラーリッシュと言うことも増えており、仏教的概念を活用して私は「栄福」と訳している。繁栄と幸福、という意味である。新しい連載の展開も、幸せを実現する学問とその実践という大目的を目指しているから、編集部と相談して「栄福の時代を目指して」というタイトルにした。「現代」の後の新しい時代を「栄福の時代」と呼び、これまでの「利害を超えて現代と向き合う」連載を踏まえて、繁栄と幸福をもたらす「栄福時代」への道標となるような学問的エッセーを書いていくという趣旨だ。いくつかの候補の中から、これを選んだ編集部のセンスに感謝したい。
学問史を振り返ってみれば、ギリシャの古典的思想には、哲学・倫理学や政治経済学に加えて、ケアについての洞察も、珠玉のように鏤(ちりば)められている。それを独自に体系化したアリストテレスは、人間の究極目的を「幸福」とするとともに、哲学や物理学のような「理論学」と区別して、今の政治経済学や倫理学を「実践学」と呼んだ。その意味では、新連載においては、この双方の学問に言及していくことになる。同時に、芸術は「制作学」というもう一つの学問的カテゴリーに分類されていた。それを思えば、「学問的エッセー」という性格には、理論学・実践学に加えて制作学という領域も関わることになる。とすれば、理論学・実践学・制作学という三つの学問カテゴリーの全領域に関する文章が、新連載の目指すところになろうか。この試みが、読者の皆様、そして日本や世界の「栄福」に寄与することを願う。
プロフィル
こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究院長、千葉大学公共研究センター長で、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科特別招聘(しょうへい)教授兼任。専門は公共哲学、政治哲学、比較政治。2010年に放送されたNHK「ハーバード白熱教室」の解説を務め、日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。日本ポジティブサイコロジー医学会理事でもあり、ポジティブ心理学に関しては、公共哲学と心理学との学際的な研究が国際的な反響を呼んでいる。著書に『サンデルの政治哲学』(平凡社新書)、『アリストテレスの人生相談』(講談社)、『神社と政治』(角川新書)、『武器となる思想』(光文社新書)、『ポジティブ心理学――科学的メンタル・ウェルネス入門』(講談社)』など。
◇栄福の時代を目指して
◇利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割
利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(90)最終回
利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(89)
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利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(86)