利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(75) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

公私混同――政治家? 政治屋?

先月(第74回)に続いて、ウォルター・リップマンに始まる「公共哲学」という視点から、現実政治を見てみよう。リップマンは、本来の「政治家(ステイツマン)」は公共的利益の実現を追求すべきであって、「政治屋(ポリティシャン)」のように私益を追求すべきではない、と主張した。この二つを概念として明確に区別したわけだ。さて、それでは今の日本の政治家は、どちらに相当するだろうか。

岸田翔太郎首相秘書官が親族を首相公邸に招き、忘年会で組閣時の記念撮影の真似(まね)をして問題化し、辞職した。首相夫妻まで忘年会に参加していたことも判明した。安倍政権の際の森友・加計学園疑惑や「桜を見る会」疑惑に現れていたような公私混同問題が再び浮上したわけだ。

もともと、子息の首相秘書官への登用自体が縁故人事として批判に晒(さら)されたし、岸田首相夫人が公費で単独訪米してバイデン大統領夫人と懇談したことも、公費の使い方として疑義がありうる。このように政治的な恩恵を家族・親族に与えることを縁故主義(親族贔屓=しんぞくびいき:ネポティズム)という。これは公私混同によって政治的腐敗を招きやすいのである。

そもそも近代の政治の起点は、公私が分化したところにある。前近代の君主国では、国王が国の財産を恣意(しい)的に用いることができた。かつては、家の財産はその主人が自由に用いることができるとされていたから、類比により、このような国家を「家産制国家」という。これに対し、近代国家では、権力者や官僚は私的な利益や関心によって国の財産を使うことはできず、議会の定めた法律に基づいて運用しなければならないことになった。

だから、公私混同が頻発するということは、近代国家から前近代の家産制国家に戻り始めていることを表している。学問的にはこれを「新家産制国家」という。日本もこのような前近代的国家に退行してしまう危険が生じているわけだ。権力者が家族を登用してそのような問題を招いているならば、それは自らが本来の「政治家」ではなくて「政治屋」であるという疑いを招くことになる。

今日の公共哲学における「公」と「公共」

よって、公私を明確に区分して、私的利益に対して、公共的な利益ないし善を擁護することが重要だ。政治において、前者の横行を斥(しりぞ)けて後者の実現を図ることこそ、公共哲学の最優先事項の一つだ。

このためには、何が必要だろうか。リップマンなら、人々が公共哲学、すなわち「文明的品性(シヴィリティ)の哲学」を広く共有することを挙げるに違いない。公私を区別して公共善の実現に努めるという良識を多くの有権者が持ってこそ、政治は正され、真の意味の「政治家」が権力を行使するようになるからだ。

この際の「公」や「公共」とは何だろうか。日本語ではこの二つの言葉は明確に区別されずに用いられていることが多い。ただ、語源を調べてみると、中国から来た「公」という漢字が「おほやけ」に用いられるようになり、後者は大きな家やその場所が原義だったことが分かる。歴史的には「おほやけ=公」は、「公家」や「御公儀」のように、天皇・朝廷・貴族・幕府・将軍などに用いられてきた。そこで、これは国家・政府や権力を表すことが多く、「お上」という上下関係の語感がある。

これに対して、「公共」には「共」という言葉が入っているように、人々が「共」に考えて行動するという水平的な語感がある。英語のパブリックにも国家・政府ないし(コミュニティーにおける)人々に関係するという双方の意味があるが、後者の意味も強い。例えばリップマンの代表作『世論(パブリック・オピニオン)』(1922年)は、「公共的意見」と直訳することができるが、これはまさしく「人々の意見」を表す。

政治の目的が「公共的利益」だというのはこの意味だ。つまり「公=国家・政府」の利益ではなく、「公共=人々」の利益の実現である。公権力、つまり「公」は、権力者の「私」的な利益ではなく、人々に関する「公共」の利益の実現を図らなければならないわけだ。このように考えれば、「公」と「公共」を区別する重要性が分かるだろう。

そこで日本における公共哲学のプロジェクトではこの二つを使い分けて、人々、つまり「民」の「公共」を活性化することを提案している。日本では阪神淡路大震災の頃に注目されるようになったNPOやNGOは、このような「公共」の担い手として期待された。

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