利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(71) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

個人の努力の限界を超えたコロナ感染

コロナ第8波は猛威を振るい、日本はまさに世界でもっとも感染状況の悪い国の一つとなってしまった。個人的にも、私自身も含め身近な人々が次々と感染してしまい、仕事でもあちこちでその経験を聞くに至った。この連載でも、また授業や公共的な場でも、私は感染への警戒と自粛を呼びかけ、近時は政治的・社会的に緊張感が緩んでいるので、自制を続けるように注意を喚起してきた。それだけに自分でも細心の注意を払ってきたのだが、感染拡大の勢いが周囲でもあまりにも激しく、回避できなかった。ここまでくると、個人の努力の限界を超えていると言わざるを得ない。

これまでも書いてきたように、幸不幸は個人の努力とともに、政治をはじめマクロな集合的行為に左右される。例えば戦争による不幸は、どれだけ「善い生き方」をしている人にも及んでくる。コロナ感染そのものは、政治によって生じたことではないが、現在の感染拡大はもはや政治的・社会的責任の所産なのである。

感染症の自由原理主義(リバタリアニズム)

安倍政権以来、日本政治は必要な対策を怠ってきた。この政治的無作為を、この連載では国家の責任放棄と機能停止と指摘してきた。上記の感染拡大はその結果であり、さらには国政選挙をはじめとする国民の政治的選択による因果の帰結である。

さらに岸田政権は、5月8日から新型コロナを感染症法における第2類から第5類へと変更することを決めた。季節性インフルエンザと同じ扱いにすることになり、この結果として、緊急事態宣言や営業時間短縮、感染者・濃厚接触者の外出自粛、水際対策、発熱外来などが原則としてなくなり、一部の医療費やワクチン接種が自己負担の方向へと変わっていく見通しである。自治体や人々への財政支援も減少する可能性が高い。これは、事実上、コロナ感染対策を国家の責任から公的に放棄して、個人の自助努力だけに委ねようとするに等しい。世界最高水準の感染状況の直後に、国家がこのような政策を打ち出すとは、悪しき意味における驚き以外の何物でもない。

安倍政権・菅政権では、無策であったとはいっても、感染法上の2類に指定していたことによって、コロナ対策を国家の責任として論理的には認めていた。それをやめるということは、感染症対策を国家が放棄し、感染しようとしまいと国家は関知せず、個人の責任とするということを意味する。これは、政治哲学で言うところのリバタリアニズム(自由原理主義)の発想そのものであり、かつてのアメリカのトランプ政権などと同様の類型に日本が陥ってしまったことになる。

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