忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(3) 写真・文 猪俣典弘

2012年、父親とのつながりの「証し」である日本国籍を切望し、筆者の聞き取りに答えるホセフィナさん(写真中央左)。この後、就籍まで7年の期間を要した。

フィリピン残留日本人二世の肖像

日本人として生まれるも、戦中戦後の混乱により無国籍状態に

戦後77年目を迎えた今も、フィリピンでは残留日本人二世の聞き取り調査が続いています。戦中に日本人の父親と離別、死別して現地に留(とど)まった子どもたちは、今や平均年齢83歳。いまだに国籍回復を実現できていない人たちは、出生証明書などの書類や父親との写真がほぼ消失しており、当時の公的な記録が残っていない人たちばかりです。

当時の日本とフィリピンの国籍法では、父親が日本人であれば子どもも日本人となります。しかし、父親が死亡したり、戦後に日本へ強制送還されたりするなどして、戸籍登載がなされないまま現地に残された残留日本人二世たちは、無国籍の状態で長年、放置されてきました。外務省の調査によると、無国籍状態の残留日本人二世は、今年3月時点で580人となっています。

事務所に届いた、助けを求める一通の手紙

「助けてください」

2012年、認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)の東京事務所に一通の手紙が届きました。送り主は、フィリピン最西端に位置するパラワン島在住の残留日本人二世・岩尾ホセフィナさん。戦中に殺害された日本人の父親の身元判明と、日本国籍の回復を求めていました。

パラワン島の小さな空港に降り立つと、黒いメガネをかけた年配の女性がいました。灼(や)けるような強い日差しにさらされながら、私を待っていてくれたホセフィナさんでした。

「来てくれてありがとう。神様に強く願えば祈りは本当に通じるんだね」

ホセフィナさんは、私の腕をギュッとつかんで離しませんでした。涙をこぼしながら「もっと早く来てくれたら、あなたの顔が見えたのに」と言われ、ハッとしました。黒いメガネの下にある彼女の目は、すでに視力を完全に失っていたのです。60代で緑内障を発症し、貧しさの中、適切な治療を受けることもかなわなかったといいます。

射殺された父親の墓を訪れるホセフィナさん

私の腕を握る手の力強さから、戦中、戦後に彼女が経験してきた苦労と、そして、父親と同じ日本人が自分に会いに来たという深い喜びを感じました。パラワン島への調査が遅くなってしまったことがひたすら申し訳なく、返す言葉がありませんでした。

ホセフィナさんの父親は、1930年ごろに日本からフィリピンに移住した大工でした。

「とても優しく面倒見のよい性格で、地元の人たちに洋服を配るなどしていたので、地域でとても慕われていたのよ。生魚が好きで、晩酌が日課でね」

「父は、背は高くなかったけれど、がっちりした体型で、鼻が高く、とてもハンサムだったわね」

記憶の中の父親を語るホセフィナさんは、とても誇らしげでした。

ところが、太平洋戦争の勃発とともにホセフィナさん一家の暮らしは一変します。日本とアメリカの主戦場となったフィリピンでは抗日運動が激しさを増し、一気に緊張が高まりました。

1942年、悲劇がホセフィナさん一家を襲います。フィリピン人の警官が家族の目の前で父親を射殺。その後、日本人の子どもは殺されるという噂(うわさ)が流れ、ホセフィナさんたちは山の中に身を隠しました。恐怖の中で逃げ回る日々が続くうち、幼い弟は栄養失調で命を落としました。

ようやく終戦を迎えた後も、ホセフィナさんたちには厳しい戦後が待っていました。島民の虐殺や捕虜の殺害など、日本軍による残虐行為に対するフィリピン人の怒りは、残留した日本人の子どもたちに向けられたのです。ホセフィナさんたちは息を潜め、隠れるようにして生きるしかありませんでした。

「父が亡くなってからは苦難の連続でした。目の治療なんて後回しにするしかなかった」

視力を失ったホセフィナさんの目から、涙が流れ落ちました。

悲願の国籍回復、日本人として重荷を背負った人生の晩年に

「無国籍」のまま生きてきたホセフィナさんは、日本人の父親の身元を明らかにすべく、父親の肉親を捜してほしいと、マニラの日本大使館に何度も手紙を出していました。しかし、何の手がかりも得られず歳月だけが過ぎていきました。私たちの事務所に送られてきた「助けて」という手紙は、ホセフィナさんが最後の希望を託したものだったのです。

私のパラワン訪問から3年後の2015年、PNLSCの調査によって、ホセフィナさんの父親は大分県出身の岩尾久衛さんであることが判明しました。その4年後、家庭裁判所で「就籍許可申立」が認められ、ホセフィナさんは悲願であった父親とのつながりの「証し」である日本国籍を回復しました。実に、戦後から74年が経過していました。

「この喜びをなんと表現したらよいかわかりません。フィリピンに残された他の残留日本人二世たちも、私と同様に日本政府から日本人と認められることを心から祈っています」。この言葉を遺(のこ)し、ホセフィナさんは2020年、コロナ禍のさなかに天に召されました。

ホセフィナさんは、かろうじて存命中の国籍回復がかないました。「自分は何のためにこれほど苦難の戦中戦後を生き抜かなければならなかったのか」。日本人であるが故に、長年、辛酸を嘗(な)め続けることになった人生の晩年、ようやく、自分のアイデンティティーの確認を果たすことができたのです。しかし、ホセフィナさんが最期に祈ったように、国籍回復を果たせないまま人生を終えようとしている多くの残留日本人二世たちが、今も残されています。

「日本」という国を背負わされ、国家や歴史に人生を翻弄(ほんろう)され続けながらも、今なお誇らしげに父親の記憶を語り、たくましく生きる多くの残留日本人二世の方たち。その生き方から、私は、国家とは、国籍とは、そして家族とは何なのか、戦争を知らない私たちが学ぶべきこと、次世代へと伝えるべきことは何なのかを改めて考えさせられています。

プロフィル

いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総堀りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。

【あわせて読みたい――関連記事】
忘れられた日本人