共生へ――現代に伝える神道のこころ(14) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

平成二十七年に建て替えられる前の生田神社の「第二鳥居」はもともと、昭和四年の第58回神宮式年遷宮の際に伊勢神宮内宮の正殿の棟持柱として建てられたものだ

余材や古材などを各神社の社殿として利用

リオ宣言が出される以前、我が国では伊勢神宮の第61回の神宮式年遷宮の斎行を巡って、米国のある研究者が20年に一度の遷宮は森林資源の無駄遣いで、自然環境の略奪ではないのかと非難する論文が出され、話題となった。実際にはその論文は全くもって事実誤認の的外れなものであったが、この論文を契機として、持続可能な開発ともいうべき、神宮式年遷宮の社殿交替システムの意義や森林環境問題に対する神道の思想・理念を改めて問い直し、世の中に訴えかけることへとつながったのである。

神宮式年遷宮においては、確かに檜(ひのき)など多くの材木を使うことは言うまでもない。ただ、その余材や旧社殿の古材は遷宮の後、全国の神社へ無償で譲与され、各神社の社殿などの資材として利用される。小生の在籍する國學院大學にも学内に神殿が鎮座しているが、その神殿の前にある幣殿(へいでん)・拝殿は、第61回の神宮式年遷宮の斎行後、正殿の撤却材(豊受大神宮と板垣壁板の一部)を譲与されて創建したものだ。平成二十五(二〇一三)年の第62回神宮式年遷宮斎行の後も、東日本大震災で被災した神社を中心に古殿舎の撤却材が各神社の社(やしろ)へと譲与された。

こうした古殿舎の撤却材の中で象徴的なものが、内宮(ないくう)・外宮(げくう)と称される皇大神宮・豊受大神宮の正殿の一番大きな棟持柱(むねもちばしら)である。この柱は五十鈴川に架かる宇治橋の内外の鳥居の柱へと移築される。そして、それまで建っていた宇治橋の鳥居は、外側が桑名の七里の渡しにある鳥居、内側がかつての鈴鹿関(関宿)にあたる関の追分の東側の鳥居(亀山市木崎)へと移築される。その関の追分の鳥居もまた、次の移築先へと譲与されていくのである。なお、この鳥居のある地は伊勢神宮へと向かう伊勢別街道と東海道との分岐点にあたる。

一例ではあるが、兵庫県の生田神社では、平成七(一九九五)年、平成二十七年の二度にわたり、関の追分の鳥居が譲与されたが、特に同社が平成七年の阪神・淡路大震災で拝殿等の境内建物の多くが倒壊、損壊したこともあって、倒壊した第二鳥居の再建に、この鳥居が用いられた。神宮ゆかりの鳥居の移築は、神社の復興活動の起爆剤となったのである。平成七年に譲与された鳥居はもともと、昭和四(一九二九)年の第58回の神宮式年遷宮の際に内宮の棟持柱であったもので、平成二十七年に老朽化から倒壊の危険性が指摘されるようになって解体されるまでの86年間余にわたり、社殿の柱ならびに鳥居として用いられた。つまり、伊勢神宮の皇大神宮の棟持柱として切り出された材木は20年でその役目を終えるのではなく、その後も有効に活用されているのである。

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