利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(46) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

「鬼滅」世界と現実

先月は、「半沢直樹」や「鬼滅の刃」といった架空の作品世界に没入して楽しみつつ論じた(第45回)が、現実に目を戻すと、陰惨な光景が浮かび上がる。目に見える鬼がいるわけではないものの、「鬼」の気配が感じられるのだ。

新型コロナウイルスの感染者が激増して、日本医師会会長や新型コロナ対策分科会会長が医療崩壊に警鐘を鳴らしているにもかかわらず、政府は本格的な新対策を打ち出そうとしない。それどころか、科学的分析結果も出始めて利用者の発症率が高いと推定されている「Go To トラベル」事業すら頑(かたく)なに続行して、感染症の地方への拡散を促進していた。旭川市や大阪市では現に医療崩壊が起きて、自衛隊看護官の派遣を知事が要請するほどの事態に至り、このままでは全国で死屍累々(ししるいるい)たる有様(ありさま)になりかねないと危惧されている。政権支持率が急降下したために、慌てて方針を急転換して全国一時停止を12月14日に決めたものの、なんと約2週間も先の12月28日から1月11日までに過ぎない。これは、感染増を促進する論外の政策を中断するだけで、積極的な感染抑止策ではないから、前政権末期以来の無為無策に変わりはない。

「鬼滅の刃」では、大正時代に無辜(むこ)の民が突然の鬼の襲来によって死んでいく。自らが鬼に化して他人を殺していく者もいる。犠牲者を救おうとして命を賭して戦うのが「鬼滅隊員」だ。令和時代においても、患者たちの多くは何の落ち度もないのに突然ウイルスに侵入され、死にゆく人々がいる。自分が感染したことに気づかずに他人にうつしてしまう人もいる。作中では家族を殺してしまう鬼が時に描かれているが、今の現実でも自分がうつしてしまった家族が死ぬという悲劇が報じられている。ウイルスは鬼のように目で見えるわけではないが、現実に進行しているのは、まさにこういった悪夢だ。ベトナムや台湾ではコロナ制圧に成功した。一方、日本は検査数を本気で増やさずに「withコロナ」なる標語で事態を糊塗(こと)しているのは、「鬼」の脅威に立ち向かわず、その蹂躙(じゅうりん)に任せるようなものだ。

「鬼滅」の主人公や登場人物たちの多くは剣士だが、毒や薬といった医薬の力を用いて立ち向かう異例の鬼女(珠世)や女性隊士(胡蝶しのぶ)も鬼退治に決定的に重要な役割を果たしている。もちろんウイルスとの戦いにおいては、医療者こそが主役だ。でも、政府は、対策を求めるその声に真摯(しんし)に耳を傾けず、この流行で多くの病院の経営が悪化しているにもかかわらず、本格的な財政的支援も行わずに、ウイルスの蔓延(まんえん)を放置し、それを加速さえしている。もっとも、「鬼滅」世界でも政府は現れず、鬼滅隊が民間組織とされているから、それと同じかもしれない。

なぜ今の政府は、罪なき人々の命を奪うウイルスに全力で立ち向かわないのだろうか。折しも、前首相関係者らが「桜を見る会」前夜祭の問題で捜査を受けていることが報じられ、国会における前首相の答弁との矛盾が明らかになった。Go To キャンペーンの継続には、現政権中枢の政治家たちへの献金などの利益が関わっているとも取り沙汰(ざた)されていた。もしこれが真実なら、「半沢直樹」に登場した悪徳利権政治家を彷彿(ほうふつ)とさせることになる。自分たちの利益のために、脅威にさらされている民を犠牲にすれば、それ自体が「鬼」の如(ごと)き非道の所業と言わざるを得ないだろう。

作品中の「鬼」はいつも嘘(うそ)をつき、冷酷だ。政治家が虚偽答弁を繰り返したり、私益のために人々を犠牲にしたりするとすれば、似たような腐臭が漂うだろう。「鬼滅」の主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)たちは「鬼」の嘘や悪業を感じる鋭敏な臭覚や聴覚を持っている。この世で、私たちもそうした感覚を研ぎ澄ませるべきかもしれない。

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