清水寺に伝わる「おもてなし」の心(4) 写真・文 大西英玄(北法相宗音羽山清水寺執事補)
全てが宗教の現場
友人の狂言師がこんなことを言っていた。「継承された伝統的な古典芸能だけをやり続けていいのならば、そんなに楽なことはない」。我々もまた、手を合わせ、継承された伝統を粛々となぞるだけでいいのかと自問している。「伝統は革新の連続」という表現をよく耳にすることがあるが、伝統を護持するとは常に油を注ぎ続ける行為であり、そうでなければ「油断」となって目減りしてしまう。だからこそ“今”の施策を考え続けるのだ。
一方で、そうした新たな取り組みばかりに傾倒し過ぎてしまうと、本懐を見失うのではと不安に感じることもある。私自身、寺において渉外的な役割を担うことが多く、その役割にばかり追われ、時に宗教者としての使命、言うなれば、日々祈りを重ね、自らの行を勤めることから離れてしまっているのでは、と省みることが以前はよくあった。しかし、先に記した「祈り」の定義を教わり、今目の前が「祈り」の現場、つまりは「自らの行」であることを思い知った気がした。客人を思いやりの心で迎え、できる限り良いひとときを過ごして頂くよう尽力する。空調を整える、履物を並べる、一杯の茶を点(た)てる、配膳する、案内する。さらに、車の手配や土産の用意、前後の予定の調整等々、どんな些細(ささい)な行い、それこそ一見雑務のようなことであってもそれは「行」の実践であり、「祈りの行為」であるはずだ。
我々は本来、自らのために何をしたいかではなく、周りのために何をすべきかを基軸にして謙虚に生きていくべきだと、昨今改めて強く思う。それは夢を描くことを否定している訳ではない。その夢に自分以外の誰かのため、何かのためという利他の心があるかどうかが重要であり、これこそが大欲と小欲の違いと考える。当然持つべきは自他平等利益の大欲である。