おもかげを探して どんど晴れ(25)最終回 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)
私は、死を迎えた人を怖いと思ったことは一度もありません。今、納棺師として仕事をしていて、亡くなった方が、思い残したことがあるなら叶(かな)えてほしい、安堵(あんど)した気持ちで過ごしてもらえたらと願いながら現場に挑みます。死者と生者をつなぐために、「お天道様かご本人に呼ばれたのかな?」と、現場で出会う相手とのご縁を大切に思っています。
私は現在、88歳の父と80歳の母の介護をしており、二人とも寝たきりです。自宅で看ながら仕事や出張を続けられるのも、主治医を中心にプロの力を借りて、心強いチームの皆さんに支えて頂いているおかげです。父も母も、交代で体調を崩し、交代であの世まで逝ったり来たりして結局この世に戻ってくるというハプニングばかりで、楽しそうにその出来事を話します。特に母が11年前の手術の後に失語症になったことを含めて、両親の介護を通して学んだのは、コミュニケーションには「言葉」も大切ですが、表情や雰囲気が重要であるということです。
母が寝たきりで、失語症になって11年。その間、悩み続けていたことの答えが出た出来事が、先般ありました。11年前、母が危険な状態になった時には延命治療はしないと、母と約束していました。しかし、死んでほしくないと思った当時の私は、約束を破り、延命を選んでしまいました。活動的だった母でしたから、寝たきりになって動けなくなったことが、さぞかしつらいだろうと毎日、母を看ながら思っていました。ベッド上で、寂しそうに静かに窓の外の空を眺める母に、謝ることさえできない日々が11年続いていました。
先日、母は逝きそうになって、帰って来ました。意識を取り戻して、キラキラした目で私を見つめてきました。何か伝えたいのだなと思い、「三途(さんず)の川に行ってきたよ、ってこと?」と聞くと、頷(うなず)きました。お空の上に逝って、会いたい人たちに会ってきたようです。「良かったね!」というと、満面の笑みでした。「そのままみんなの所に逝きたかった?」と聞くと、首を横に振りました。「こっちに帰って来たかったの?」と聞くと、頷きました。「みんなに会えたのに、こっちの方が良いの?」と聞くと、笑顔で頷きました。「こっちの方が、楽しい?」と聞くと、満面の笑みで手でオッケーサインを出しました。勇気を出して、一番聞きたかったことを聞きました。「今、楽しい?」と聞くと、大きく頷きました。年を重ねたことで更に涙腺が弱くなっている私は、号泣しました。私は、この瞬間に苦しみの呪縛から解かれました。
私は毎日、誰かの人生の一筋の光になりたいと、思っています。私も、さまざまな方から苦しい中でも一筋の光を頂いて、生きていることを実感しています。そう考えると、現場の中で自分が光になっていたつもりでも、死者の存在が私の光で、その「いのちの輝き」がみんなを照らしてくれていたのかもしれないなということに、この原稿を綴(つづ)っていて気がつきました。
人生にはいろんなことがあります。法事が奇数なのも、人生は割り切れないものだからという理由もあると聞きます。皆さんが人生の中で、笑顔になる回数が一度でも多くなることを願いながら、筆をおきたいと思います。2年間、ご愛読頂きありがとうございました。皆さまのさらなるご多幸を祈念申し上げます。
※タイトルにある「どんど晴れ」とは、どんなに空に暗雲が立ち込めても、そこには必ず一筋の光がさし、その光が少しずつ広がって、やがて真っ青な晴天になるんだよ、という意味です
プロフィル
ささはら・るいこ 1972年、北海道生まれ。株式会社「桜」代表取締役。これまでに復元納棺師として多くの人々を見送ってきた。全国で「いのちの授業」や技術講習会の講師としても活躍中。「シチズン・オブ・ザ・イヤー」、社会貢献支援財団社会貢献賞などを受賞。著書に『おもかげ復元師』『おもかげ復元師の震災絵日記』(共にポプラ社)など。
インタビュー・【復元納棺師・笹原留似子さん】死者と遺族をつなぐ 大切な人との最後の時間をより尊いものに