おもかげを探して どんど晴れ(24) 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)

「今、抱っこできるようにしています」と、お母さんに声を掛けました。お母さんが「抱っこしたい」と言われたので、大判のバスタオルで体をおくるみした状態の彼を私が一度抱き、お母さんの胸の中へ渡しました。お母さんは彼に頰ずりをしながら、話を聞かせてくれました。

「拡張型心筋症だったんです。移植が間に合いませんでした。海外での移植も考えて、夫と昼も夜も働いて、お金をためていました。間に合わないのなら、仕事なんてしないで、もっとそばに居てあげれば良かった……。いや、私がこの子のそばに、もっと居たかった」。お母さんは、大きな声で泣いていました。

おばあちゃんが言いました。「答えの出ない、答え捜しだね。どっちを取っても、きっと後から悩むけど、こんなに悩んで考えて決めたことなのだから間違いではないよ。どっちを選んでも、間違いではないよ」。

彼の人生は、5年でした。大抵、小さな子どもさんが亡くなった現場では、「短い人生」と、生きた年数で評価をされがちですが、こちらのお家(うち)が素晴らしかったのは、誰も年数では評価をせず、彼が一生懸命生きた5年を、家族一人ひとりがたたえていたことでした。

参加型納棺ではほとんどの場合、悲しみと向き合いながら死を認識して、故人の人生を見つめて頂くという流れになります。でも、こちらのお家は違いました。

家族全員が「死を覚悟していた」ということが分かりました。つまり、彼自身が自分の病気を理解し、いつ起きるか分からない発作に対して、その後に起きるかもしれない死を、覚悟していたということです。家族は、ブレることなく彼を中心に一つでした。

おばあちゃんが言いました。「最後の夜にね、私と二人で見たいと言っていた花火を窓から見てね、大好きなソフトクリームを、おいしい、おいしいって食べていたのよ」。それを聞いて、お母さんが言いました。「うん、好きだったね、ソフトクリーム。バニラ味ね」。おばあちゃんと、お母さんは、目を見合わせて笑いながら涙を拭いていました。彼が遺してくれた思い出は、彼の大切な家族を支え続けてくれると思いました。

こうしてこの仕事を続けていく中で、臓器提供を待っていた子どもたちの納棺にご縁を頂くこともあります。私の人生にとって、初めて臓器提供をしっかり教えてくれたのが、この子でした。

私は彼から、寿命が来るまでは、しっかり周りの人と輝きながら生きることを学びました。寿命が来たら、臓器は提供出来ることも教えられたと思っています。彼との出会いの後、私も、父も母も子どもたちも、みんなで話し合って家族全員、脳死後か心臓が停止した死後に臓器提供をすることを決めました。

一つ心配なことがありました。私の臓器を提供された人が、私のようなおしゃべりで、おせっかいになってしまうのではないかということです。その時はご容赦頂きたいと思います。

※タイトルにある「どんど晴れ」とは、どんなに空に暗雲が立ち込めても、そこには必ず一筋の光がさし、その光が少しずつ広がって、やがて真っ青な晴天になるんだよ、という意味です

プロフィル

ささはら・るいこ 1972年、北海道生まれ。株式会社「桜」代表取締役。これまでに復元納棺師として多くの人々を見送ってきた。全国で「いのちの授業」や技術講習会の講師としても活躍中。「シチズン・オブ・ザ・イヤー」、社会貢献支援財団社会貢献賞などを受賞。著書に『おもかげ復元師』『おもかげ復元師の震災絵日記』(共にポプラ社)など。