おもかげを探して どんど晴れ(16) 文・画 笹原留似子(おもかげ復元師)
悲しい光景は忘れることができません。津波で流された家や、行方不明になった家族を捜し歩く人たちが大勢いて、夕方には歩き疲れたのか、道端に座り込む姿を毎日、目にしました。
復元納棺師である私は遺体安置所からの帰り道、道端に座り込む人たちに、よく声を掛けました。「もう、すっかり暗くなりましたね。向こうの方へ行きますが、ご迷惑でなければ送りましょうか? どうぞ、車に乗ってください」。そう言うと、「うん、安置所の帰り道なんだけど、足が痛くて歩けなくなってしまった」といったが返ってきます。そうした方たちを何度も乗せて、言われた通りに車を走らせると、車で40分から1時間もかかる場所にある避難所にたどり着くということが、たびたびありました。
各地域に、いくつもの遺体安置所があり、家族を捜す多くの人たちは遺体安置所を渡り歩いていたのです。地域によっては、自衛隊が安置所から安置所を回る人たちを車に乗せ、移動してくれていました。捜索や収容の現場で、自衛隊、警察、消防の人たちに話し掛けるご遺族も多く、遺体安置所では警察官の人たちが、泣き出す遺族の肩をさすり、声を掛けて、捜索、収容、遺体管理、遺体引き渡しに尽力し、被災者遺族を支えてくださっていました。そうしたことは公にはなっていませんが、たくさんの思いやりと優しさがそこにはありました。
大きな遺体安置所には、100~300人の方が安置されていました。二日間続けて、警察管轄の安置所に行った時のことです。そこは、被災者遺族以外は入れない安置所でした。玄関に、小学4年生の女の子がいて、警察官にあいさつをしていました。「おまわりさん、おはようございます!」「おはよう!」「あのね、今日もお母さんに会いに来たの!」。彼女は警察官に手を振ると、安置所の中へ小走りに入って行きました。
火葬においては、普段は3日から1週間で火葬をしてもらえますが、多くの方が亡くなった東日本大震災ではこの時期、火葬までに1カ月以上もの順番待ちになっていました。
火葬の順番が間近になったのでしょう。女の子は、約300名が安置されている安置所の入り口から奥に向かって3番目の棺(ひつぎ)の脇に立ち、腰を曲げて棺のふたに触れ、話し掛けていました。「お母さん、おはよう! 今日も会いに来たからね!」。私は胸がいっぱいになりました。
彼女は振り返り、先ほどの警察官を見ました。目が合ったところで、満面の笑みで手を振っていました。彼女が通い続けていたことが、この様子からよく分かり、通う中で警察官との間に信頼が生まれたのでしょう。安心できる場所――そうだからこそ、彼女はお母さんに育ててもらった満面の笑みを、みんなに向けていたのだと思います。悲しみの深さは、もらった愛情の深さに等しい――この言葉を私はかみしめました。つらく苦しく悲しい中にも、一緒に過ごしたキラキラ輝く時間が今も彼女の中に存在し、その輝く中のお母さんが今も彼女を支えていると教えてもらった、深い時間でもありました。。
この時期、全国各地だけでなく、世界中から支援物資が届いていました。頂いた支援物資は、自分のためにではなく、自身は我慢して、亡くなった人にお供えする人も多くいました。食料に困っていた時期でもありましたので、「お供え物は、お供えした後に粗末にならないように、頂くものなんだって」。そう伝えると、特に子どもたちは、亡き人と分かち、ありがたく支援物資を頂いていました。
物資は、ただの物ではありません。物に心がこもっている、そう思います。直接、物資を提供してくださった方とお会いできなくても、思いを頂いて、みんな、物資と温かい心に支えられていました。
※タイトルにある「どんど晴れ」とは、どんなに空に暗雲が立ち込めても、そこには必ず一筋の光がさし、その光が少しずつ広がって、やがて真っ青な晴天になるんだよ、という意味です
プロフィル
ささはら・るいこ 1972年、北海道生まれ。株式会社「桜」代表取締役。これまでに復元納棺師として多くの人々を見送ってきた。全国で「いのちの授業」や技術講習会の講師としても活躍中。「シチズン・オブ・ザ・イヤー」、社会貢献支援財団社会貢献賞などを受賞。著書に『おもかげ復元師』『おもかげ復元師の震災絵日記』(共にポプラ社)など。
インタビュー・【復元納棺師・笹原留似子さん】死者と遺族をつなぐ 大切な人との最後の時間をより尊いものに