利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(12) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)
画・国井 節
「対話回避病」を治そう
国会がようやく開かれて、憲法をめぐる議論が始まっている。国会議員だけでなく、全ての人々が政治について熟慮すべき時が来た。
こういった時にこそ、対話が必要だ。でも、こういった大きな問題になると、対話ができなかったり、意外に話が弾まなかったりすることが多い。国会の議論がいい例だ。野党が質問しても、政府がはぐらかしたり議論から逃げたりすることが多いからだ。
一般の人々は、未知の人に政治や宗教について下手に話を始めようとすると、危険な人ではないかと思われて警戒されてしまいかねないから、本当は大事なことだと分かっていても、こういった話題を避けがちだ。
いってみれば、重要な話題に対する「対話回避病」にかかっている人が日本には多いように見える。あなたはどうだろうか? こんな病から回復するためにはどうすればいいだろうか。
対話の場の大事さ
この連載の(4)や(5)で対話の方法を簡単に説明した。簡単にまとめれば、自分と考え方の違う人と話すことによってこそ、自分の意見が深まり成長することができる。そのために「傾聴→思考→応答」というように、しっかりと耳を傾けて聴き、相手の世界を深く理解して自らの頭で考え、タイミングよく相手に合わせて分かりやすく話す。最後に、あとで振り返ることによって、自分を外から見直して成長することができるようになる。
対話がうまくなるためには、方法を知っただけでは無理だ。実際に行ってみなければならない。畳の上の水練という言葉があるように、いくら頭の上でこうしようと思っても試してみなければうまくはならない。そのためには対話の場に出掛けていって、聴いて発言してみるのがいい。もちろん日常生活でもこういった練習はできるのだが、相手も対話する姿勢になっていた方が、はじめはやりやすい。
宗教や政治における対話の場は、このためには理想的だ。価値観や世界観について話すことがもともと想定されているからだ。こういった大きな話をすることが当たり前だから、真剣に話しやすい。宗教における対話の場で、実人生の深刻な問題に触れ、過去の傷が甦(よみがえ)ってきて涙が込み上げてきても、誰も不思議には思わないだろう。変な人と思われて避けられるのではなく、愛情を込めて優しく慰めてくれたり、傷を癒やす方法を教えたりしてくれるかもしれない。逆に講話が心に響いて感涙するかもしれない。それでも誰も奇異な目では見ないはずだ。むしろ喜んでくれるだろう。