法華経のこころ(11)
常に我を見るを以ての故に、而(しか)も憍恣(きょうし)の心を生じ(如来寿量品)
もし、いつでも仏に遇(あ)えるのだということになれば、人は安心し怠け心を起こし、仏を敬う心を起こさないであろう。
仏教の集まりで、ある講師さんのお説法を聴く機会があった。献香献華、読経供養が終わり、講師さんが登壇した。講師さんは、まずこう尋ねた。「献香献華をした人で、冷や汗をかいた人?」。
みんな手を挙げた。講師さんはこう続けた。「私も献香献華のお役を頂いた時、緊張して冷や汗が出ました」。
次の言葉が素晴らしかった。「私たちも日常、人に接する時、仏さまに対し冷や汗をかいたように、いつもふるえる心で相手を敬い触れ合いたいものです」。
仏さまの教えというものは、きっとこの講師さんの言葉に凝縮され、言い尽くされているのではなかろうか。そして、「初心」ということについて思った。私たちは日常、触れ合っている家族や職場の人、教えの友であるサンガに対し、“ふるえるような気持ち”で接しているだろうか。
時には、相手を軽んじたり、あなどったり、なれ合ってはいないだろうか。日常生活とは、こうした惰性の連続のようなものだ。「その惰性から抜け出るには、初心に帰ることだ」とだれかが言っていた。この講師さんの言葉は忘れてはならない「初心」のように思える。
(H)
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