法華経のこころ(2)

度すべき所に随って 為に種種の法を説く(如来寿量品)

「私は衆生それぞれが仏道を行じているか否かを知っていますので、その心がけや機根に応じ、適切な方法を選び、さまざまに法を説いてあげるのです」。衆生済度を常に願ってやまぬ仏の慈悲あふれた言葉である。

心が落ち込み、出口の方向すら分からない。そんな状態が続いていたある晩のこと。還暦を過ぎた父が、通信講座から返送されてきた添削紙を手に話しかけてきた。

「熟れ柿の数える程に実を残す夕影寒しいのちの愛惜」と詠んだ父の和歌の横に、添削者からの助言--「もともと短歌とはいのちの愛惜をうたうものだから、この結句は蛇足」。受け取り方によっては〈あなたはそもそも、歌の何たるかを知らない〉という酷評とも読める。

最初は心で猛反発したという。十四、五歳から独学で約五十年間、細々とではあるが、“命の証”を詠みつないできた父。それだけに、一番受け入れ難い批評だったに違いない。しかし、数日後、心に一つの思いを得て、立ち直ったという。〈原点に戻って、一から再出発すればよい〉。苦悶の後にやっとたどり着いたそれが父の小さな悟りだった。そんな話を聞きながら、私も父の到着点に自身の出口を感じた。

添削者は、父にとって「度すべき所に随って法を説く」仏であったし、私にとってその日の父が仏であった。
(O)