忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(9) 写真・文 猪俣典弘

父の故郷を訪れて親族と対面した知念ノルマさん(2013年)

離別した家族に会いたい――終わらない戦後

「親族捜し」はフィリピン残留日本人二世たちに共通する願い

戦争によって家族が二つの祖国に引き裂かれ、親やきょうだいと死別や生き別れになったフィリピン残留日本人二世たち。その数は、戦中の幼少時死亡者を含めると4000人を超えます(フィリピン日系人リーガルサポートセンター=PNLSC=調査)。

彼らに共通する願いは、離別した父、離散した家族を捜すこと。そして、本来持つべき日本国籍を回復させることです。PNLSC発足後、父親の身元が判明したのは704件。念願の日本国籍回復は295件に上ります。全員の救済にはまだ程遠いですが、現地職員、東京事務所のスタッフ、弁護士のチームワークで地道な調査、作業を積み重ね、1件ずつ着実に歩んできました。

中でも、特にやりがいを感じるのは、生き別れた家族の再会に立ち会った瞬間です。戦争で引き裂かれた父やきょうだいと、60年、70年ぶりに会えたのは24人。再会の瞬間に立ち会うたび、言葉にならない思いが胸に込み上げます。
一方で、父親の身元が不明で国籍回復できずにいる約350人のうち、生存を確認できたのは約150人です。平均年齢83歳、彼らに残された時間は少なく、この数年が勝負であるのは確かです。

東京に行けば、妹、弟に会えるかもしれない

記録的に早く開花した桜が、3月の冷たい雨に濡(ぬ)れそぼつある日の夕方。一人の女性が私たちの事務所を訪れました。沖縄から来たという宮城照子さん(92)は、「80年前、フィリピンで生き別れた弟と妹を捜してほしい」と話しました。

照子さんの両親は、戦前に沖縄からフィリピンのダバオに移住し、マニラ麻の栽培に従事していたそうです。照子さんは、11人きょうだいの2番目。全員が現地で生まれました。事業に成功した両親は、子どもたちに日本の教育を受けさせたいと考え、照子さん、兄、妹の一人を沖縄に帰国させました。

その後まもなく太平洋戦争が勃発し、家族は離れ離れになります。激しい地上戦が展開された沖縄では、「鉄の暴風」とも言われる米軍の激しい爆撃、捕虜になるのを禁じられたことで起きた集団自決などで、県民の4人に1人が亡くなっています。照子さんも地上戦に巻き込まれ、苦しい避難のさなかに祖母を失い、妹ともはぐれました。

戦後、生き延びて沖縄に引き揚げた親戚の話では、フィリピンから帰国できなかった両親、きょうだいの多くが死亡し、残る3人は消息不明とのことでした。妹弟を捜して沖縄に連れ帰るのは、生き延びた自分の責任――照子さんは、5度にわたりダバオを訪れました。