共生へ――現代に伝える神道のこころ(3) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)
日々、神々を祀り、神を丁重に敬うことで清く明るくより良く生きる
前回は『古事記』について多くの行数を割いたので、今回は『日本書紀』に記載されている内容について、少し述べてみたい。
『日本書紀』といえば、我が国初の国史で『続日本紀(しょくにほんぎ)』や『日本後紀(こうき)』などと共に六国史(りっこくし)の一つで、歴史書でもあり、文学作品としても親しまれてきた古代を代表する書物である。『古事記』と共に『日本書紀』は、神道を語る上で必須の古典であるものの、神話の内容については、いささか異なっている。『古事記』は、主に神代の世界から天皇の御代に至るまでが一つのストーリーのみで記されているのに対し、『日本書紀』は、「一書に曰く」という形で、本文にいくつもの類似した異伝(別伝承)を掲載している。理解し難い面もある一方、神話に対してさまざまな異説が付加されているという点では、歴史書としての特徴が見られる。
最初に登場する神についても、『古事記』は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と、異なっている。また、国生みの順番も『古事記』では、淡路島にあたる淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)、『日本書紀』は、本州にあたる大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)が最初に生まれているという点で異なり、国生み、神生みの順番などにも差異が見られる。
さらに、『日本書紀』本文(正伝)では、神生みの後に伊弉冉尊(いざなみのみこと)は軻遇突智命(かぐつちのみこと)を産んでおらず、亡くなっていないため黄泉国(よみのくに)の訪問譚は登場しない。「一書に曰く」として黄泉の段が登場し、軻遇突智命(『古事記』では火之迦具土命=かのがくつちのみこと、静岡県の秋葉山本宮秋葉神社に祀(まつ)られ、防火開運の神として信仰されていることでも著名)が登場することもあり、天照大神(あまてらすおおかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、月読尊(つくよみのみこと)の三貴子の誕生する場所やそれぞれの神が分治する場所も『古事記』とは異なっている。
特に「高天原(たかまのはら)」についての差異は、国文学者の中村啓信氏の研究でも知られるところである。『古事記』では、高天原が本文の冒頭から記されていることに対し、『日本書紀』の本文冒頭ではこれを見いだすことができない。八種ある異伝のうち、第四の「一書に曰く」の部分で、異説として『古事記』の冒頭と一致する伝承が登場している。この問題は、『古事記』に見られる「高天原」と『日本書紀』に表される「高天原」の違いがどのようなものであるかということにも関わる問題で、そもそも「高=天原」なのか「高天=原」なのかという訓読の仕方や考え方にもつながるものとして、中村氏のほか、太田善麿、西宮一民、小松英雄の各氏らがさまざまな論を提示している。『古事記』の冒頭の「天地初発之時」の訓読の仕方や、『日本書紀』本文で天照大神が最初に登場する際の名前が天照大神でなく「大日孁貴(おおひるめのむち)」である点などとも関連し得る問題となっている。