共生へ――現代に伝える神道のこころ(1) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部准教授)
神道への理解は、多様性を許容し合う社会で大切な考え方の一つに
「神道と福祉との関係性を一緒に研究してみないか」という恩師からの何げない一言がきっかけとなり、神道の学問研究を志すようになってから、はや二十四年を経た。小生は現在、全国に二校しかない神道系大学の一つである國學院大學の教員を務めているが、神道は学べば学ぶほどに未知のことが多く、まだまだ自身の勉強不足は否めない。さらなる研究の深化を求めて、各地の神社や祭礼に足を運び、種々の史料や書籍、学術論文などと苦闘、煩悶(はんもん)する日々を過ごしている。
神道を学ぶ上での難しさは、学べば学ぶほどに諸説あり、あれも正解、これも正解ということが少なくないことだ。大半の事柄でとにかく答えが一つでないことが多く、真理が非常に見えにくく、説明し難いこともある。ある意味、神道の持つ多面性、多様性の価値の賜物(たまもの)とも言えるものだが、多くの答えが存在していると、どうしても何が正しいかが分かりにくくなってしまう。
例えば最近、一般の方に問われたことの一つに、「神社の参道は神様の通り道であるので、参道の真ん中を歩いてはいけないという作法があると聞いていたが、神職は祭礼の折に参進する際には、参道の真ん中を堂々と歩いている。これは不敬ではないのか」というものがあった。確かに神様の通り道とされており、真ん中を横切る際は、神職には不敬にならないように頭を下げて歩く作法もあり、問われた方のおっしゃることはごもっともである。
一方、祭礼の際に参道の真ん中を神職が進むのも正しい作法であり、この折は神社に祀(まつ)られる御祭神を敬い祀るための祭祀(さいし)に奉仕するため、御祭神の御神意に沿った形で社殿へと進むための作法に基づく行為であるから、不敬ではない。しかし、一般の人に説明する際に、これも正しいがあちらも正しいということでは、なかなか理解してもらいにくいだろう。