利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(41) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

大いなる慈しみと悲しみ

先月の明るい気分もつかの間に終わってしまった。東京都の新型コロナウイルスの新規感染者数が連日200人台に上がったにもかかわらず、政府も都も対応策を取ろうとしない。「休戦状態」の期間に次の危険に備える必要性を前回指摘したが、日本はそうせず、戦火が再び上がってさえも事態を放置しようとしているのだ。それどころか、政府は「Go To トラベル」事業を前倒しにすると発表し、批判を受けて東京だけ除外した。

でも東京都知事も知事選前に、自粛の要請に代わってこれからは各人が「自らを守る“自衛”の局面」に入った、と公言していた。それにもかかわらず、都民は圧倒的多数で再選させたのだから、東京における感染者急増という結果が自分たちに返ってきても、それは自業自得ということにならざるを得ない。

この事態を見て、私は仏教の「慈悲」という言葉を思い出した。仏教思想を知った頃、なぜこの言葉に「悲」が入っているのか不思議に思った。キリスト教の愛に「慈しみ」は近いが、「悲しみ」も含まれているのが仏教の特質だからだ。

そのうち、仏教には極めて高度な思想があると思うようになった。――御仏(みほとけ)や優れた仏教者は、人々を慈しみの心で見て、育み救おうとされている。しかし因果の法則があるゆえに、人々が悪しき行いをする場合にはその結果が表れてくることは避けられない。結果を予見しうる智慧(ちえ)を持つがゆえに、大きな悲しみ「大悲」をもって見守らざるを得ない。

この考え方からすれば、人々が自らの意志で為政者を選んでいる以上、その結果を悲しい気持ちで認識しつつ、その災いが少しでも減り、正しい道が早く認識されるように、人々と国のために祈り行動し続けるほかはない。

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