法華経のこころ(9)
人間の生き方の究極の境地が示された法華三部経――。経典に記された一節を挙げ、それにまつわる社会事象や、それぞれの心に思い浮かんだ体験、気づきを紹介する。今回は、「方便品」と「無量義経徳行品」から。
是(かく)の如き増上慢の人は、退くも亦(また)佳し(方便品)
舎利弗(しゃりほつ)の再三の願いで、今まさに、無上の法を釈尊が説き出さんとした時、一座のうちの五千人が教えも悟りもすでに得たと錯覚して席を立った。釈尊は、「増上慢の人が立ち去るのは、かえって本人のためにもよいことでしょう」と、静かに見送った。いつかは彼らも気がつく時がくるであろうという釈尊の大慈悲の発露であるが、私たち修行者は、退席者の態度にいま一度、深い内省を加えてみねばならない。
貧困は男を酔いどれ漢にしてしまった。家庭を支えるために、娼婦にまで身を落とさねばならなかった娘の元にまで、この弱い性格の男は飲み代をねだりに行く。男の名はマルメラードフ。ドストエフスキーの『罪と罰』の登場人物だ。
このような男であっても神のみもとに召されるのである。自己のうちになんの価値も認めず、「召される資格がない」と自らに感じているが故に、神は彼を召し給うのだ。
この話を逆に説けばこうなる。賢者のような顔をして思い上がった人間ほど、真の救済から程遠いということである。釈尊も去って行く者たちの心に、こうしたうぬぼれを見た。自分を人より優れた者、悟った者と錯覚した増上慢ほど救われ難い存在なのだと、修行者は肝に銘ずる必要があるのではないだろうか。
(H)
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