【七宝焼職人・田村有紀さん】伝統工芸を再興させるために

日本の伝統工芸の一つで、宝石に匹敵する美しさからその名が付けられた七宝焼は、明治期には“尾張七宝”として一世を風靡(ふうび)した。しかし、発祥の地である愛知・あま市七宝町では200軒以上あった窯元が8軒まで激減。消滅の危機にひんしている。窯元に生まれた田村有紀さんは〈消えかけている七宝焼の魅力を、多くの人に伝えたい〉との思いから、継承を決意。窯元を受け継ぐ両親からアドバイスを受けながら、日々、制作と普及活動に励んでいる。田村さんに、七宝焼の魅力をはじめ、伝統工芸を取り巻く現状と再興への思いを聞いた。

200軒以上あった窯元が8軒に

――七宝焼とはどのような工芸品ですか

七宝焼は金属にクリスタルガラスを粉末状にした釉薬をのせ、焼き上げる工芸品です。あま市七宝焼アートヴィレッジにも解説があるのですが、七宝とは、仏教の経典にある七種類の宝「金、銀、瑠璃、硨磲=しゃこ、瑪瑙=めのう、真珠、玖瑰=まいかい」に匹敵するほど美しいことから、この名前が付けられました。そのため、七宝焼は宝石として扱われ、明治期には物品税が掛けられていたのです。

細かい絵柄が思い通りに表現できますし、何といってもクリスタルの輝きを帯びた色の美しさが、七宝焼の一番の魅力だと思います。

――七宝焼を受け継ぐきっかけは?

本格的に七宝焼の制作活動を始めたのは、2015年頃です。私の実家は1883年から続く七宝焼の窯元で、父は四代目、母も制作しています。だからといって、両親には継いでほしいと言われたことはなく、実は、全く継ぐ気はありませんでした。ただ、幼い頃から両親の姿を見て育ったので、何かものを作って自分を表現し、それが人の役に立って、誰かを喜ばせることができる仕事をしたいと考えていました。

それで、大学では建築を学び、卒業後は、歌手・太田ゆうきとしてライブを中心に音楽活動に打ち込んだのです。

田村さんが製作中の七宝焼の花瓶(写真右)

しかし、七宝町の窯元が激減している状況に、〈これはもう、七宝焼が消える寸前だ〉と危機感が募りました。どこの窯元も、熟練の職人が一人いるだけで、跡継ぎがいるという話は聞きません。仕事も減り続けています。このまま人知れず無くなってしまうのは耐えられず、子供の時から両親の制作を手伝っていて工程もある程度分かっていたこと、そして何より七宝焼が好きという気持ちから、勝手に五代目を名乗り、「まずやってみる」ことにしました。今は両親から時折、「研磨する時は、もう一つ細かいやすりを使った方がきれいに仕上がる」「こういう加工の方が亀裂が入りにくい」といったアドバイスをもらいながら、日々、制作に没頭しています。

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