「普門館とわたし」特別編――識者の思い(1)

11月5日から11日まで行われた、吹奏楽関係者やファンに普門館大ホールの舞台を開放するイベント「普門館からありがとう~吹奏楽の響きたちへ~」には、現在、音楽の仕事に携わる識者も訪れた。それぞれの普門館とのゆかりを、「普門館とわたし」特別編として2回にわたって紹介する。今回は、東京音楽大学教授の外囿祥一郎さん、作曲家の鈴木英史さん、ライターの梅津有希子さん。

外囿祥一郎(ユーフォニアム奏者、東京音楽大学教授)

1986年と87年に、全日本吹奏楽コンクール(高校の部)でこの普門館の舞台に立ちました。中でも87年の経験が、僕にとっては人生を歩む上で、苦しい時にそれを乗り越える“バネ”となりました。

その時、僕は吹奏楽部の副部長で、表彰式に出たことをよく覚えています。なぜよく覚えているかといえば、自分なりに最大の努力をしてコンクールに臨んだのに、成績が銀賞だったからです。もちろん、金賞を取っていたら達成感を得られたと思いますが、とても残念な気持ちで、人生で初めての「負け」を味わった体験でした。努力しても、人生では困難にぶつかることがあり、この先、もっと大きな壁があるんだと実感したものです。

この体験はつらいものでしたが、決して挫折ではありません。もっと奏者として頑張ろうと思え、この時の体験があったからこそ、ユーフォニアム奏者として今まで続けてこられたのだと思います。

吹奏楽をしていた人にとっては、ここは憧れの地。普門館がなくなるのはとても残念ですね。(談)

鈴木英史(作曲家、編曲者)

普門館は以前、東京佼成ウインドオーケストラのCD録音でよく使われていました。私が20代で駆け出しだった頃、後に佼成ウインドオーケストラの桂冠指揮者となるフレデリック・フェネルさんの指揮で録音された、レスピーギの交響詩「ローマの松」の編曲をさせていただきました。続けて佼成出版社から作曲の依頼を受け、「ソング・アンド・ダンス」を作りました。この二つは私にとって人生初の大きな仕事で、これが自分の吹奏楽デビューの仕事となりました。

当時のチケット(鈴木氏所有)※クリックで拡大

一番最初に普門館に来たのは中学1年生の時、カラヤンの指揮によるベルリンフィルの演奏会でした。入場料が確か2000円。普門館まで一人で自転車をこいで来て、客席に座ったら視界の中に舞台の両端が入らない。それにまず驚きました。それから、あまりにも素晴らしい音がしました。透明なすらーっとした音。雰囲気も普通のホールと違ったことを、今でもよく覚えています。その後、高校生の時に東京都大会で、この舞台で打楽器を演奏したり、大人になってからは全国吹奏楽コンクールの審査員を務めたりと、さまざまな場面で普門館に来ていました。

普門館は、私が今まで音楽を続けることができている上での恩人です。吹奏楽をするのに、初めて大きい舞台に立ったのがここで、初めて大きい仕事をもらったのもここ。ここで仕事を積み重ね、育ててもらいました。普門館がなくなるのは本当に残念です。これだけのホール、これだけ愛される建物はなかなかありません。解体するのを今からでも中止にしようと言いたいくらい、なくしてほしくない。でも、形あるものはなくなるし、意外となくなったものの方が、さまざまに残ることがあります。そもそも音楽は形がないものですし、愛情や味もそう。ですから、普門館は今後ますます“伝説”になっていくのではないでしょうか。(談)

【次ページ:梅津有希子さん(ライター、『青空エール』の監修者)】