普門館とわたし(6)

福島で被災し、全国からの支援に感謝深めて

2011年3月に発生した東日本大震災を福島県にて体験した私は、同11月、普門館のステージで全国各地から集まった5000名の観衆に向かい、司会を務めることになりました。

誰もが知る通り、当時は全国から被災地に向けて物心両面の支援が続けられる中で、私は、被災者の一人として、ある意味では被災者の代表として、普門館のステージに立ち、万感の感謝の思いを伝えることができました。

ステージ上に立った瞬間、全身から溢(あふ)れ出る涙を抑える術(すべ)はなく、数秒間の沈黙ののち、観衆からの励ましに背中を押されるように役を務め上げることができました。

ステージと客席が一体となって一つのモノガタリを作り上げていく。

こうして、普門館にそれぞれの思い出が刻まれるのだと実感しました。

(高橋秀典・男性・立正佼成会本部職員)

さらば普門館

今からちょうど40年前の中学1年生の時、普門館のステージに立ちました。

都立中学校の吹奏楽部に入部したため、吹奏楽コンクールの予選から普門館で演奏することができました。諸先輩たちから「今日は普門館で演奏するとは思うな! 金賞を取ってもう一度来る時が本当の普門館だ!」と言われ「何のこっちゃ?」という思いしかなく、漆黒のステージに立つ“価値”も分からずに演奏したのはわたくしだけではないと思います。

予選であっても普門館は普門館。小学生に毛が生えたくらいの中学生に、恐怖に近い感覚を抱かせたステージと客席の圧倒的な大きさは、生涯忘れられないものとなりました……が……。

それと同じくらい忘れられないのが、普門館のエレベーターです。毎年、リハーサル室からステージに行くまでの間に使ったと記憶していますが、静まったエレベーター内で、年に1回しかみることのできない、一緒に乗った先輩、同級生、後輩、そして好きだったあの人の特別な表情、というか“ミスをしないように”という気合いの入った“眼”をみることができたからです。

全国大会での漆黒のステージに上がることを目指し、一緒に暑い日も寒い日もひたすら練習に明け暮れ、「テストで赤点をとれば親にどのような言い訳をすればよいか」「好きな人にどんなアプローチが有効か」などの相談にアドバイスしてくれたり、アドバイスした諸先輩、同僚、後輩たちは、今も自分と同じように“普門館プラスα”の思い出を持ってどこかで笑ったり、泣いたりしているのだと確信します。多分、そうそう“普門館”を思い出すことは無いとは思うのですが……。

日本において、これほど多くの中高生に“ステージに上がる”ことを羨望(せんぼう)されたホールは普門館くらいじゃね? と思うのですが……、思い入れが少し過ぎますかね。

(りUp・52歳男性・会社員)