普門館とわたし(6)

普門館にまつわる思い出やエピソードを「普門館とわたし」として募集したところ、貴重な体験が投稿として寄せられています。第6回は、学生の「H.M」さん、「Y.H」さんと、被災後に舞台に上がった「高橋秀典」さん、40年前に舞台で演奏した「りUp」さんの投稿です。(タイトルは編集部)

“夢”の舞台

私にとって普門館はすごく憧れの舞台でした。小学生から吹奏楽を始めて中学、高校と続けてきました。でもまだコンクールで全国大会に行ったことがない。普門館も名古屋国際会議場も。

普門館は黒い床、広いステージ、たくさんのお客さん。「吹奏楽の甲子園」といったら普門館だった。強豪校の歓声のブラボーがきこえてくる。いつかは私もプレイヤーで行きたいと思っていた。でもコンクールのDVDでみるだけ。本当に1度は普門館で演奏したかった。普門館は夢の舞台。

名古屋国際会議場に変わってからもその気持ちは変わらない。絶対に全国大会に行ってやる! 行って見せる! 部活部屋の壁には名古屋国際会議場の会場の写真が飾ってある。待ってろよ名古屋国際会議場。そしてありがとう普門館!

(H.M・18歳女性・高校生)

初めての全国大会 幻となった普門館

吹奏楽に初めて触れたのは、中学1年生の頃でした。親に、何かしら部活動はしておきなさいと言われ、消去法で吹奏楽部に入部。楽器がテューバと決まり、低音パートの人数も少なかったため、楽譜も読めないままコンクールメンバーになりました。当時の先輩方はとても熱心な人たちばかりで、初めて音楽と真正面に向き合う私にとってはついていけないことも多く、言葉足らずな先輩に対して不満もたくさん抱きました。

合言葉は『目指せ普門館』。休憩中の会話で、普門館は吹奏楽をやっている人なら誰しもが目指す場所と言われました。そう話してくれたユーフォニアムの先輩の目がとても真剣で、「ああ、先輩たちは本気なんだな」と思ったのを覚えています。けれども、吹奏楽に触れるのが初めての私にとって、全国大会に行くことがどれだけ大変なのか、普門館の床を踏むことがどれほど吹奏楽部員にとって栄誉なことか、当時の私には想像もつきませんでした。

その年、幸運にも支部大会まで駒を進めた私たちは、顧問の先生に、とある映像を見せられました。数年前の、全国大会のビデオです。

黒い床、白い反響板、そしてユニフォームを着て凛(りん)と佇(たたず)むプレイヤー達。その雰囲気だけで、全国大会というものがどういうものかを肌で感じた気がしました。先輩たちはこの場で演奏することを夢見て頑張っている。そう思うと、自然と姿勢を正し、その映像を最後まで食い入るように見ました。

その後、私たちは本当に幸運なことに全国大会出場を決め、これで普門館に立てると、家族にその旨を喜々として伝えました。しかし翌日、先生から渡されたプリントには「支部吹奏楽連盟」の文字。夏のコンクールを主催するところであることはぼんやりながらも知っていたので、顔を硬くしてしまいました。

『本年度のコンクールは、名古屋国際会議場で執り行います』

私にとっては初めてのコンクール、そして初めての全国大会。先輩があれだけ普門館を目指していて、全国大会という場を狙ってきた事を知っていた私は愕然(がくぜん)としました。その頃には、全国大会に駒を進めるということがどれだけしのぎを削ることか理解していましたし、ようやく出場が叶(かな)った全国大会なのに普門館の床を踏めない。私はどうしようもなく悔しくて、その思いを先輩に吐露しました。

すると先輩は、「私も普門館で演奏できないのはものすごく残念に思う。だけど、全国大会に出るということは、出られなかった学校の努力も応援も私たちが背負うということ。残す大会はあと1回。やるべきことは、会場にいる全員を満足させる演奏をすることだよ」と仰(おっしゃ)ったのです。のちのミーティングで顧問の先生も、「普門館を目指すのもいいことだが、最優先はお客様を感動させる演奏をすること。場所を目指すことに囚(とら)われて、音楽を捨てるな」と鼓舞しておられました。

結果は残念ながら銅賞でしたが、あのときの名古屋国際会議場での演奏は、今でも鮮明に思い出せます。

普門館。吹奏楽経験者にとって目指す場所であり続けたところであり、全日本吹奏楽コンクールのシンボルとしても名を馳(は)せていた場所。今ではいい思い出ですが、思い出すたびにやっぱりちょっぴり悔しいです(笑)。

(Y.H・25歳男性・学生)

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