核廃絶に向けて 宗教の役割を考えるシンポジウム 上智大学で
『仏教者の取り組み』
浄土宗心光院住職 全日本仏教会事務総長 戸松義晴師
武器を持つ者に生じる恐怖
1957年5月、イギリスが南太平洋にあるクリスマス島の上空付近で数回にわたって水爆実験を実施しました。イギリス政府がこの実験計画を発表した後、全日本仏教会(全日仏)は反対声明を発表しました。これが全日仏による核廃絶に向けた初めての声明です。以降アメリカ、ソ連(当時)、近年は北朝鮮による核兵器の開発・実験に対して遺憾の意を表明し、全日仏に加盟する各宗派もそれぞれ、声明を出しています。
また、全日仏が加盟している日本宗教連盟(日宗連)、世界仏教徒連盟(WFB)からも、核兵器廃絶に向けた声明が示されました。
ここで私が強調したいのは、仏教界は声明を出すけれども、具体的な行動が伴っていない点です。各宗派の僧侶が学び、考え、個人の判断で核兵器廃絶に向けた取り組みに力を注いでいるという事実はあります。残念ながら、全日仏、あるいは一つの宗派として、具体的な行動に至っていません。
では、私たちはなぜ声明を出すのか。それは、核兵器の問題を「いのちの問題」として、一人でも多くの檀信徒に考えて頂きたいとの願いからです。仏教徒の基本的な姿勢を示す際、私たちは、次のようなブッダの言葉を必ず紹介します。
「殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭(いと)い離れたその衝撃を宣(の)べよう」(『スッタニパータ』<武器を執ること>935)
アメリカでは、多くの人が銃を所持しています。その主な理由は、銃を持っていないと、銃で殺されるかもしれないという恐怖が生じるからです。銃を持つ行為が、それまで銃を持っていなかった人の心の中にも、恐怖を生じさせる――そのような心の動きを、ブッダは示していたのです。
こうした考え方から、核兵器をめぐる議論に対する答えは明白です。仏教者としては、たとえ通常兵器であっても、「持たない」という生き方をしよう――これが、仏教界の立場です。
ただし、人々がその答えを求め、真剣に考えることこそが大切です。ですから、仏教界として答えは明白だけれども、あえて言葉にしない。それが、私たちの基本姿勢です。