内藤麻里子の文芸観察(14)

多くの反対の声を尻目に、ヘイトスピーチ対策法、共謀罪の創設を含む改正組織的犯罪処罰法が成立したのが2016年から17年にかけて。表現の自由が脅かされるのではないか、という心配が霧のように世の中を覆っている。世界報道自由度ランキングで、日本は66位である。

桐野夏生さんの『日没』(岩波書店)は、まさに、世の中に知られずひそやかに表現の自由を制限し始めた国家の圧力を描き出した。

マッツ夢井こと松重カンナはエンタメ作家。ある日、総務省文化局の文化文芸倫理向上委員会(ブンリン)というところから召喚状が届く。読者からの提訴があったから出頭しろとの指示だ。行ってみると、そこは療養所で、スマホも使えない、周囲から孤絶した場所だった。

療養所長によると、自分の作品の問題点を認識し、社会に適応した作品を書く訓練をするのだという。マッツが召喚されたのは、読者から「マッツ夢井はレイプや暴力、犯罪をあたかも肯定するかのように書いている」と告発があったからだ。ヘイトスピーチ法の成立を機に、「あらゆる表現の中に表れる性差別、人種差別なども規制していこうということになった」のだという。制定前に危惧していた拡大解釈が、現実となって迫る。

「タブーや世間一般の良識など想像もつかぬところに、人間の本質があると信じて、読者の眉を顰(ひそ)めさせたかった」という信念を持つマッツは、ヘイトスピーチと表現の違い、小説や作家というものについて反論を試みるが、所長との話はどこまでもかみ合わない。

「B98番」と呼ばれ、自由はなく、粗末な食事だけが楽しみな生活。他人と話せば共謀罪が適用され、規則に反すると減点が課せられる。減点1で収容期間が1週間延びる。抵抗と失望がないまぜになって統制され、精神が混乱していく様子が巧妙につづられる。

ここに描かれるのは、あくまで施設という現場の様相だ。どこにも政府の上つ方は出てこない。それがたまらなく怖い。一般の人々はブンリンなど知らず、それどころかヘイトスピーチ法の拡大解釈も、共謀罪が問われる療養所のことも知らない。そういえば最近、作家の訃報が多いという状況があるだけだ。どこまでも救いのない物語である。

桐野さんは世の中の不穏さをつかみ取って、渾身(こんしん)の小説にしてみせた。ここにある危機感を、フィクションさ、とのんきにしていられる時間は、とっくに過ぎた。

プロフィル

ないとう・まりこ 1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。87年に毎日新聞社入社、宇都宮支局などを経て92年から学芸部に。2000年から文芸を担当する。同社編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞でコラム「エンタメ小説今月の推し!」(奇数月第1土曜日朝刊)を連載中。

【あわせて読みたい――関連記事】
内藤麻里子の文芸観察