バチカンから見た世界(89) 文・宮平宏(本紙バチカン支局長)

教皇が訪日に託した思い(3)――声なき貧しい人々と地球環境を代弁し核兵器廃絶訴え

ローマ教皇フランシスコは訪日中の11月24日、長崎と広島から、核エネルギーの軍事利用が「倫理に反している」ことを訴えた。

また、長崎のスピーチでは、イタリア・アッシジの聖フランシスコ(1182-1226)の「平和を求める祈り」で結んだ。「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください」と。

長崎から広島へ向かった教皇は、広島に投下された原爆を、「一瞬の閃光(せんこう)と轟音(ごうおん)の後、影と沈黙のみが残りました。ほんの一瞬の間に、全てが破壊と死のブラックホールに飲み込まれました」と描写し、「その沈黙の淵から、亡き人々の叫び声が今も響き続けています」と人類の罪を糾弾し、犠牲者に哀悼の意を表した。全ての犠牲者を追憶し、「あの瞬間から生き残った人々を前に、その強さと誇りに敬意を表します。長年にわたり自らの肉体に激しい苦痛を抱え、精神的に生きる力を奪う死の兆しに耐えてきたからです」と述べた。

アッシジの聖フランシスコは「貧者の救済者」と知られる。その名を選んだ現教皇は、平和の巡礼者として、この地を訪れなければならないと感じていたとの心情を表明。「私は記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人々の叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者です。私は慎んで、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います」と聴衆に語り掛けた。

その声とは――「現代社会が直面している増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。それは、人類の共生を脅かす受け入れ難い不平等と不正義、共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です」と強調した。「共通の家」とは、地球や地球環境のことだ。こうした視点から教皇は、「戦争目的の核エネルギーの使用は、人間と、その尊厳のみならず、共通の家の未来に向けた可能性を断ち切るものであり、犯罪以外の何ものでもありません」と述べ、戦争目的の核エネルギーの使用は「非倫理的」と非難した。

教皇の長崎と広島での訴えの背景には、聖フランシスコが説いた、「神の前で自身の“貧しさ”(罪)を認め、その人間の貧しさの結果である“憎しみ、いさかい、分列、疑惑、過ち、絶望、闇、悲しみ”に苦しむ“貧者”と“われわれの共通の家”(「太陽の賛歌」)との連帯の精神」がある。核兵器が神の無量の慈しみの対象である被造物、人間と自然を大量に破壊するから、「人の道に反する」(非倫理)というのだ。神による創造の秩序(慈しみ)を破壊する原爆は、神への冒とくでもあるのだ。