共生へ――現代に伝える神道のこころ(24) 写真・文 藤本頼生(國學院大學神道文化学部教授)

「非時の香菓」の伝説と菓子の祖神

小生がこの季節に雛人形を見て、ふと思い出すのが菓子の祖神として知られる「田道間守命(たぢまもりのみこと)」だ(『古事記』では多遅摩毛理=たぢまもり=と記される)。田道間守命は、但馬国(現在の兵庫県北部)の開拓の祖である天日槍命(あめのひぼこのみこと)の子孫。『日本書紀』巻第六には、第十一代の垂仁天皇の九十年春二月庚子朔の条に、天皇の命を受けて、食べると長生きができると伝わる「非時(ときじく)の香菓(かくのみ)(箇倶能未=かくのみ)」を求めて常世国(とこよのくに)へと遣わされたという、いわゆる「田道間守」伝説が記されている。田道間守命が遠い海を越え、十年の歳月を経て常世国から持ち帰った非時の香菓は、『和名抄』には「橘=たちばな=[和名 太知波奈=たちばな=]」とあり、同様の伝承が記されている『古事記』にも「是今橘也(これいまのたちばななり)」と記されている。常緑の橘の木には、永遠に栄えるという意味があり、この木になる小さな蜜柑(みかん)や橙(だいだい)のような実を古代の人々は賞玩していたという。神話では常世国から来たという橘は、我が国固有の柑橘(かんきつ)で、現在も京都御所の紫宸殿(ししんでん)の階下に「右近の橘」として植えられていることでも著名だ。

この伝説には続きがある。田道間守命がはるか彼方(かなた)の地からこの非時の香菓を持ち帰る一年前に、垂仁天皇は崩御。その一年後に非時の香菓を携えて帰ってきた田道間守命は、一部を皇太后に献上したものの、天皇への復命がかなわず、悲嘆の中で残りの果実を天皇の陵(みささぎ)に詣でて捧げ、「臣(やつかれ)が生きているといっても何の益(しるし)があろう」と号泣して、自ら命を絶ってしまった。その後、田道間守命の墓は垂仁天皇陵(りょう)の濠(ほり)の中に陪塚(ばいづか)として建てられた。菓子のように甘い話ではなく、なんとも物悲しい伝説である。

さて、話を菓子の話へと戻そう。我が国では、樹木になる実や果実を古代から「古能実(このみ)」や「久多毛能(くだもの)」と称しており、「菓子」の「菓」は、漢字の元の意味では「果」で木の上に実がなる様子を示している。「子」にも木の実の意味があり、果実や種のことを表す意もあるため、その点から見ても「菓子」は「果子」と同一の意味を持っていた。それゆえ、果物を常世国から持ち帰った田道間守命が菓子の祖神、柑橘類の祖神として知られるようになったと考えられている。

田道間守命は「田道間」の名にも見られるように、生誕の地が旧但馬国、現在の兵庫県豊岡市と伝えられており、古代の豪族・三宅氏の祖とされている。そのため生誕地の豊岡市三宅に鎮座する中嶋神社の御祭神として祀(まつ)られているほか、京都府の吉田神社境内の菓祖神社、和歌山県の橘本(きつもと)神社、佐賀県の伊萬里(いまり)神社などにも祀られている。特に、田道間守命が持ち帰った橘を最初に植えたのが橘本神社にほど近い「六本樹(ろっぽんじゅ)の丘」と伝えられており、この地がみかん発祥の地とされる。同社では毎年四月に、全国百社以上の菓子業者によって、各地の銘菓が奉納される「菓子祭(全国銘菓奉献祭)」も斎行されており、秋には「蜜柑祭り」もある。

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