忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(2) 写真・文 猪俣典弘
涙を流しながら日の丸を振り、両陛下をお迎えした彼らは誰なのか
両陛下が最後の「慰霊の旅」でマニラ戦に言及
上皇上皇后両陛下が御在位中、海外での最後の「慰霊の旅」としてフィリピンの土を踏まれたのは2016年1月のことでした。先の大戦で日米両軍によって激しい地上戦が繰り広げられたフィリピンへの訪問は、両陛下の強い願いで実現したそうです。
戦争による日本の兵士、民間人の犠牲者は約51万8000人、米軍兵士は1万6000人ほど。一方で、戦闘の巻き添えになったり、無差別に殺されたりしたフィリピン人は111万人にも上りました。
両陛下は御出発に際し、羽田空港で「中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と述べられました。太平洋戦争末期の1945年2月、マニラでの市街戦は熾烈(しれつ)を極め、10万人を超える市民が犠牲になったと言われます。しかし、この戦いに関する記載はどの歴史教科書にもなく、かつての私を含め、ほとんどの日本人はこの事実を知りません。
マニラに到着された陛下は、マラカニアン宮殿で開かれたベニグノ・アキノ大統領(当時)主催の晩餐会(ばんさんかい)で、このように「おことば」を述べられました。
「この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」
晩餐会の後、アキノ大統領は、両陛下が歴史と真摯(しんし)に向き合うお姿とお言葉に「心を揺さぶられた」と述べています。陛下は、「歴史を知ること」の大切さ、そしてフィリピンの寛大さに安住するのではなく、「決して忘れてはならない」ということを、私たち日本人に向けて発信された――そう感じるのは、私だけではないでしょう。
フィリピン残留日本人二世、陛下へ心近し
当時、フィリピン残留日本人二世たちは、両陛下ご訪問の知らせに胸を躍らせて、お迎えする日を心待ちにしていました。宮内庁と外務省に宛てて、両陛下のご奉迎を切望する手紙を送っていましたが、謁見(えっけん)の場に出席できるのは代表5人のみということでした。
ところが、ご訪問の10日ほど前、日本大使館からうれしい連絡をもらいました。両陛下は当日、参集する残留日本人二世の全員と会う心積もりでおられるとのこと。「父の国・日本」から「捨てられ忘れられ」てきたと感じていた残留日本人二世にとって、日本の象徴である両陛下が自分たちに心を砕いてくださっていることは、非常に大きな意味を持っていました。彼らが、夢のような展開に大喜びしてシワくちゃな笑顔を見せたことを、私は今でもはっきりと思い出します。後に、面会の決定を下されたのは、陛下ご自身であったと皇室関係者から聞きました。
陛下との謁見に集まった残留日本人二世は総勢92人。両陛下はその一人ひとりに「ご苦労されましたね」と声をかけ、ほぼ全員と握手されました。そして最後に、「みなさんを誇りに思います」と語られました。そのお姿を前にして、残留日本人二世たちは「陛下に、亡くした父の面影をみた」「苦労を認めてもらえて、心が軽くなった」と話し、涙を流していました。
その涙は、決して軽いものではありません。陛下が「誇りに思う」と言ってくださったことで、自分たちが「父の国」から顧みられていることを実感できたのです。これによって、残留日本人二世たちが負ってきた深い傷がどれだけ癒やされたことでしょう。
しかし一方で、彼らの癒やしは、日本政府からの具体的な救済によってしか完結し得ないのもまた事実です。
終戦から77年。4000人ほどいた残留日本人二世の多くはこの世を去り、生存者約500人の平均年齢は83歳となりました。彼らの多くはいまだ無国籍の状態であり、父親とつながる「証し」としての日本国籍の回復を心待ちにしています。「日本」という言葉がわずかでも耳に入れば胸を高鳴らせ、長い歳月を経ても変わらず抱いてきた「父の国」への愛慕の気持ち。彼らの思いに応えるため日本政府に残された時間は、もうわずかです。
(写真は全て、筆者提供)
プロフィル
いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総(かずさ)掘りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。