忘れられた日本人――フィリピン残留日本人二世(1) 写真・文 猪俣典弘
「フィリピン人を殺しに来たのかい?」
1995年11月、立正佼成会青年本部(当時)から青少年育成、地域開発のボランティアとしてバターンキリスト教青年会(BCYCC、フィリピン)に派遣された私は、赴任して間もないある晩、通りがかりの老婆にこんな言葉を投げかけられました。
「あなたはハポン(日本人)かい? またフィリピン人を殺しに来たのかい?」
憤怒と憎悪のこもったまなざしとともに彼女が語り出したのは、10代のころに経験したという日本軍の侵略による「バターン死の行進」の恐ろしい真実でした。日本軍は彼女の父を銃殺し、自宅を焼き払い、神父であった叔父までも処刑したといいます。
「日本軍が行った拷問、殺戮(さつりく)、略奪や強姦(ごうかん)を見聞きしてきた。ハポン(日本人)は、もはや人間じゃない。私たちにとって憎むべき相手だよ」。彼女の言葉に、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。日本軍による侵略の事実を頭では理解していたつもりでした。ですが、終戦から50年が経過してもなお、フィリピンの人々の生々しい怒りと心の傷を目の当たりにし、考えの甘さを思い知らされたのです。
こうした、フィリピンの人々の激しい怒りや憎しみを一身に浴びて、厳しい戦後を生き抜いてきた人たちがいます。現地に残留した日本人移民の子どもたち、「フィリピン残留日本人二世」です。
「移民送り出し国」だった日本
敗戦の荒廃から復興し、著しい経済成長を遂げた日本は、今でこそ多くの外国人、特に東南アジアからの労働者(一部は技能実習生として)を受け入れてきました。しかし、100年ほど前の日本はまだまだ貧しく、1年間に数万の日本人を、北米や南米、ハワイ、南洋諸島に出発させる「移民送り出し国」でした。
その渡航先の一つが、東南アジアのフィリピンだったのです。国内最大の日本人移民社会が築かれたミンダナオ島のダバオを中心とし、各地に日本人社会が生まれていきました。1940年には、フィリピン全土の日本人移民は3万人に達しました。
ところが、フィリピンに移住した日本人とその家族の運命は、太平洋戦争によって大きく狂わされました。苦労の末に築き上げた豊かで平和な移民社会は、日本軍のフィリピン侵攻によって無残に破壊されたのです。日本人移民は軍人、軍属として徴用され、隣人であり、親戚であるフィリピンの人々と敵対して争うことを強いられ、その多くが命を落としていきました。
何とか生き延びた日本人たちは戦後、日本へと強制送還されました。しかし、終戦当時に日本人の父親と一緒に帰国した残留日本人二世はほとんどいません。彼らの多くは父親と生き別れ、フィリピン人の母とともに残留することしかできなかったのです。両親を亡くし、孤児となった二世も少なくありません。反日感情が強く渦巻く戦後のフィリピンで、「ハポン(日本人)=人殺し」の子どもとして、怒りや憎しみを一身に浴びながら、かろうじて生き延びてきたのです。
今なお続く「戦後」
終戦から77年が経ちましたが、いまだにフィリピンの山奥や村々で、死別・離別した日本人の父親と親族の消息を探し、自分を日本人だと認めてもらえる日を待ち望む人々がいます。フィリピンに残留した日本人の子どもたちは、私たちが把握しているだけで、およそ4000人。残念ながら、その多くの人たちはすでに寿命が尽き、無念のままにこの世を去ってしまいました。現在も、わずか数百名の人たちが生きながらえており、日本国籍の回復を辛抱強く待ち続けています。彼らの長い戦後は、今なお終わっていません。
終戦記念日の8月15日を迎えました。日本人の多くが忘れ去ろうとしている戦争の傷痕の中に、暮らしを破壊され、家族と引き裂かれ、国籍を奪われたフィリピン残留日本人二世たちがいます。彼らの長い戦後、そして、今を生きる肖像を、1年にわたりさまざまな角度から伝えていきます。
(写真は全て、筆者提供)
プロフィル
いのまた・のりひろ 1969年、神奈川県横浜市生まれ。マニラのアジア社会研究所で社会学を学ぶ。現地NGOとともに農村・漁村で、上総(かずさ)掘りという日本の工法を用いた井戸掘りを行う。卒業後、NGOに勤務。旧ユーゴスラビア、フィリピン、ミャンマーに派遣される。認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)代表理事。