利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(2) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

公共的な宗教とは?

これからの宗教は、社会や政治に積極的に働きかけることが望ましい。そのためには公共性が大事だ――私はそう考えるのだが、そもそも「公共」とはどのような意味だろうか? 辞書では「社会一般、おおやけ」(広辞苑)というように説明がある。一人ではなく多くの人々に関わるわけだ。

「公共事業」といえば、国家や自治体の事業という意味とだいたい同じだから、国家や政府・官庁という意味で「公共」が用いられている。でも「公共の空間」という言葉はどうだろうか。公園のように人々が自由に立ち入ることができる空間という意味で、国家という意味ではない。この場合の「公共」は、コミュニティーなどの多くの人々に関わるということを指す。国家と明確に区別するために「民の公共」ということもある。私が重視する「公共」はこちらの方だ。

国家という前者の意味で「公共的な宗教」を考えてしまえば、国教ということになる。昔は西洋諸国ではしばしばカトリックが国教になっていたし、日本でも古代には仏教や神道が似た役割を果たしていた。でも、今は違う。近代的な憲法では宗教や信仰の自由が認められていて、特定の宗教と国家が結びつくことは禁止されている。その信者以外の人々を抑圧しかねないからだ。

多くの人々に関わるという後者の意味なら、今でも宗教に公共は大切だ。宗教は、もともと多くの人々を救い助けようとしているからだ。でも、全ての宗教が公共的というわけではない。一人ひとりの内心の問題は私的な事柄だからだ。キリスト教でも仏教でも、内奥の心の救いに活動の重心を置いているところもある。それは尊いことだが、その半面として社会や政治に働きかけることはあまりしないことになる。そうすると、前回に書いたように今日の多くの問題に対して無力になってしまいかねないのだ。

実は日本の仏教にはこのような性格が歴史的に強い。社会や政治に働きかけると、時の権力と衝突する可能性が生じやすいからだ。武家の支配する時代にそうなると宗教は弾圧を受けかねない。すると生命が危険になるから、先人たちはそれを回避してきたのだ。でも、今は民主主義の時代だから、昔に比べると命まで失うようなリスクは少ない。それよりも、何もしないでいて戦争が起きたりする可能性の方が大きいのではないだろうか。

もう一つ重要なポイントがある。自分の宗教の信者に働きかけるだけで望ましい社会ができるだろうか。たとえば、仏教や神道に基づいて政治運動をするとしよう。その時に、自分たちの宗教の考え方だけで社会や政治をつくっていこうとしたらどうだろうか。そもそもそれは難しいし、仮に多数派になってそうすると、それ以外の人々にとっては悪夢のような抑圧を受けると感じられるかもしれない。これでは国教があったような古い時代に戻りかねない。

今という時代には、自分たちと違う考え方の人々も存在することを念頭に置いて、その人たちとも話し合いながら共に理想的な社会や政治をつくっていくことが大切なのだ。多様な考え方の人々がいることを前提にして、その人々と共に考えたり話したり行動したりすることも公共的という。

逆にいえば、いくら多くの人々がいても同じ考え方を前提にしていたり強制したりする状態は公共的ではない。宗教においては信仰を共有することが大事だから、ややもすると内部の人々だけで活動する閉鎖的な性格になりやすい。社会や政治に働きかけることの少ない宗教が多いのは、このためでもある。

現代の世界では、どの地域でもキリスト教・仏教・イスラームなどさまざまな宗教の信者がいるし、信仰を持たない人も少なくない。その全ての人々を幸せにしていくためには、多様な考え方の人々と共に行動していくことが必要だ。そのような交流によって、自分たちの信仰の意義が広く理解されることもある。そのためにも宗教が内部だけに閉ざされずに、開かれた公共的な性格を持つことは大事なのだ。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院社会科学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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