利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(54) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

コロナ敗戦をもたらした責任と精神形態

このような災厄をもたらした「開戦」責任者は、国内では誰よりも政治的リーダー、つまり首相と東京都知事にある。コロナ治療に全力を尽くしている内科医師の倉持仁氏がテレビで「こういう人たちに国を任せては国民の命は守れませんから、2人とも至急お辞めになった方がいい」と直裁に発言して「倉持先生」がツイッターのトレンド1位になった(Nスタ、3日)が、この発言に多くの人々が共感したのは当然だろう。治療を受けられずに自宅で苦しみ、死にゆく人々が現れても責任を感じないのならば、その冷血な感性は政治的責任者にふさわしくない。

もっとも、無謀な「開戦」を許した責任は、他の多くの人々にもある。第二次世界大戦の終戦後に、政治学者の丸山眞男は、東京裁判被告の自己弁解から「既成事実への屈服」と「権限への逃避」という2点を摘出した(丸山眞男「軍国支配者の精神形態」=丸山眞男『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波文庫など所収)。「五輪はもうすぐなのだから今さら中止できない」という声は、まさしく前者に相当する。これは、悪しき現実主義だ。「政治家やIOC(国際オリンピック委員会)、実行委員会が決めることだから自分が何を言っても無駄だ」という諦めは、後者に対応する。

私たちは、今度こそ、いかなる状況にあっても、悪しき現実主義に流されずに理想や理念を貫き通し、「自らには権限がない」と逃げずに、一人ひとりが粘り強く働きかけ続ける必要がある。今回、そのような市民たちがいたことは、未来への希望である。

本来の政治

本来の政治の目的は、人々の生命・健康などの公共善を実現することにある。現政権はオリンピックによる支持率の回復や、総選挙の勝利を目指して五輪を強行したといわれている。もしこれが本当なら、自らの権力維持という自己利益のために、人々を犠牲にしたわけだ。まさしく本来の目的に背反した、邪(よこしま)な政治に他ならない。

人々のために奉仕しようとする賢明な有徳政治家ならば、感染拡大の危険をいち早く察知して五輪を事前に中止したはずだ。もし政権を引き継いで医療崩壊に対処する責任を負わされたら、すぐに臨時の病院や検査・医療施設を戦時の野戦病院のように大規模に設置して、一人でも多くの人々の苦しみを救おうとするはずだ。五輪施設にはこの目的に転用できるものも多いから、開催中でも即時に中止して転用すべきだったし、まして終了後なら当然のことだ。中国や米英はじめ、もっと早い段階で感染爆発に襲われた国々はまさにこうしたのだから、世界に先例がある。ここまで感染が拡大すると、非常事態宣言の強化や全国への拡大を急ぐとともに、ロックダウン(都市封鎖)も含めて、次々と有効な方策を最速で実施しなければならない。

畢竟(ひっきょう)するに、自分たちの私的利益と、人々の幸福や不幸回避という公共的な善のどちらを優先するか、ということだ。前者を優先するのが悪徳政治家、後者を優先するのが美徳の政治家であり、私的利益を追求する政治は不公正で不正義であり、公共善を実現しようとする政治が正義にかなっている。コロナ敗戦後の世界に求められるのは「徳義共生主義(コミュニタリアニズム)」であり、私たちは、第二次世界大戦直後の日本人のように、陰惨な敗戦の崖っぷちに立って、死者を悼みつつ、このような徳と正義を政治に回復するように決意を新たにしなければならないだろう。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院人文社会学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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