現代を見つめて(59) 自分事とは 文・石井光太(作家)

自分事とは

近年、新聞等のマスメディアでジェンダー(社会的につくられた性)の問題が取り上げられることが多くなった。

数年前「#MeToo」が世界的に広がったこと、医学部入試における女性差別が明るみになったこと、森喜朗氏の性差別発言があったことなどが理由だろう。

世の中にジェンダーの問題があるのは衆目の一致するところだが、なかなか改善にまでは至らない。

メディアの企画会議に呼ばれて出ると、社員の人たちが「社会でのさばる女性蔑視のオジサンを叩(たた)く企画をしよう!」と息巻いているのを見かける。ただ、私から見れば、その会社こそジェンダー問題の温床だと思うので、こう言う。

「他人を批判する前に、自分たちの職場を改善してみてはどうでしょう。むしろ、それを報じてみては?」

すると、社員の人たちは一様に苦笑いして沈黙する。外に向かって声を上げる気はあっても、内側に対してはないのだ。学校、病院、市役所で言っても、反応はまったく同じだ。

なぜか。おそらく、みんな自分を弱い立場だと思っているのだろう。

一社員である自分が声を出しても流されると思い込んでいる。毎日の仕事に追われて生きるのに精いっぱいで、冷遇されるリスクを冒してまで余計な力を注ぐ勇気がない。だから、職場の問題に対して、声を上げることができない。こうした大勢の沈黙が、みんなが悪いと思っているはずの問題を膠着(こうちゃく)化させてしまう。

でも、私たちは自分が思っている通りの弱い人間なのだろうか。

子供の頃、誰もが大人というのはすごく大きな力を持っていると信じていたはずだ。彼らが声を上げれば、世の中が動くものだと疑わなかった。だから、体制の側について沈黙する大人を軽蔑した。

今の子供たちも、私たち大人をまったく同じように見ているはずだ。いや、子供だけじゃない。新入社員も、契約社員も、より弱い立場の人はそう思っているだろう。

だとしたら、沈黙は正しいことなのだろうか。今をやり過ごすので手いっぱいなのはわかるが、私たちはかつて嫌悪していた「沈黙する大人」になっていないか。

若い人は自由だ。責任がない……。そんな言い訳をはじめれば、どこかの性差別論者の味方になってしまうことを忘れてはならない。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。