現代を見つめて(51) 歴史を見る“眼” 文・石井光太(作家)

歴史を見る“眼”

コロナ禍の中で、七十五回目の終戦記念日がもうすぐ訪れる。

私自身、戦争体験者にインタビューをしていて、自戒を込めて思うのは、教科書やメディアが伝える戦争はほんの一部だということだ。年表の上では、太平洋戦争は一九四五年八月十五日に終わっている。だが、そこからは見えてこない「戦争の歴史」は現在に至るまで続いているのだ。

かつて私は、終戦後の上野を舞台に「浮浪児」と呼ばれた子供たちのノンフィクションを書いたことがある。先日、長年ホームレス支援をしてきた稲葉剛さん(一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事)と会った時、こんなことを言われた。

「僕がホームレスの支援をはじめた九十年代の半ば、浮浪児だったと語るホームレスの方がたくさんいました。『俺は浮浪児だったんだ。だから路上暮らしには慣れているんだ』と言われたんです。石井さんの本を読んで、そういう人たちがいたことを思い出し、全然知らない歴史があるんだなと思いました」

浮浪児の大半が、空襲で親と死別した戦災孤児だ。彼らは浮浪児として街頭で生きることになったために学校へ通えず、大人になっても読み書きができなかった。また、幼くして両親と別れた子の中には、両親の記憶どころか、自分の名前や家の場所さえ覚えておらず、戸籍を持たずに生きてきた人もいた。

彼らは戦争によるハンディを抱えながら、日本の経済成長の中でもがくように生き延びてきた。だが、五、六十代になってバブル崩壊による不況の煽(あお)りを受け、再び社会から零(こぼ)れ落ちた。そうした人々の一部がホームレスとして路上に舞い戻ったのだろう。

最初に私が述べた「戦争の歴史」とは、こういうことだ。元浮浪児たちが半世紀の時を経て再びホームレスになったのも戦争の悲劇の一つであるはずなのに、表に出てくることはない。戦争とは切り離された社会問題として捉えられてしまっているのだ。

歴史はすべて地続きになっている。中国残留邦人の二世の問題なども同じだ。戦争なら戦争だけを学ぶのではなく、戦争が今の社会問題とどうつながっているのかを知ることも重要なのである。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。