現代を見つめて(47) その死を悼む 文・石井光太(作家)
その死を悼む
新型コロナウイルスの影響で、タレントの志村けんさんが亡くなった。英国紙では「ウイルス感染した最初の日本人セレブの死」として報じられたそうだ。
志村さんの訃報が流れた時、情報番組のコメンテーターたちの中に、こんな言葉が目立った。
「志村さんは、最後に私たちにとても大事なものを残してくれました。志村さんは身をもってコロナの恐ろしさを教えてくれた。志村さんの死を無駄にしないためにも、私たちは自覚的な行動を取って、コロナの感染拡大を食い止めなければならない。大切な人を守らなければならない」
私はこれを聞いた時、その通りだと納得する一方で、もし同じ「セレブ」だったとしても、別の人が亡くなったら、コメンテーターたちは同じ意見を述べるのだろうかと思った。
たとえば、独善的な政治家だったら? 財産をひけらかしてばかりいる社長だったら? 自分がいかによく見えるかだけを考えているモデルだったら?
きっとそのような言葉は出てこなかっただろうし、視聴者もそう受け取らなかったと思う。では、なぜ志村さんの場合は違ったのか。
それは、世代を超えた大勢の人が、志村さんからたくさんのことを与えてもらったと感じているからではないか。ここで彼の功績を一々挙げることはしないが、誰もが一度はお茶の間で志村さんのコントを見て楽しい気持ちになったり、愛らしい動物との触れ合いを見て温かい気持ちになったりした経験があるはずだ。時には、それが悲しみや苦しみを乗り越える力となっただろう。
そう、気がつかないところで、私たちは志村さんからいろんなものを与えてもらっていたのである。それが当たり前になっていたからこそ、私たちは訃報を聞いて自然と「また志村さんが大事なものを与えてくれた」と受け取り、感謝したのではないか。
あらゆる宗教や民話や芸術は、人に与えることの美徳を説いている。そう生きることが、どれだけ尊いことなのか。今の社会的危機の中でそれを知れたことは幸運だし、自分自身もそうありたいと願う。
プロフィル
いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。