利害を超えて現代と向き合う――宗教の役割(35) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

自然における諸生命との共生

西洋思想で「共生」という時には、人間の“間”の共生を考えて、人間のコミュニティーを想定することが多い。他方で東洋思想では、日本の仏教で「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と言われているように、動植物にも人間と共通の仏性や神性を認めて、それらを尊重する考え方が強い。

このような思想は、近年は逆に西洋で注目されてエコロジー思想を深化させている。経済発展が地球の環境破壊を進めてしまうという警告から、エコロジー運動が始まったのだが、単に物質的な側面だけではなく、価値観・世界観にも反省が必要だという認識が高まってきた。人間中心の発想をやめて、自然を基軸に考えていく必要があると主張しているのがディープ・エコロジー思想だ。

とはいえ、人間の文明を放棄して原生自然に帰るわけにはいかないから、精神性を復興して、自然を尊重しつつ、その中で自然と調和するような社会へと文明を転換していく必要がある。

エコロジカルな美徳とコミュニティー

私が主張する徳義共生主義(コミュニタリアニズム)では、美徳や正義の考え方を人間の社会だけではなく自然環境にも広げ、動植物を含め、自然の中で人間が共生していくことを主張する。人間は「善い生き方」に関する価値観・世界観を持ち、家族や社会に対して責任を負っている。これを「負荷ある自己」というが、「自然の中に存在する自己」という考え方にも発展させて、人間は自然環境にも責任を負うと考えるべきだ。これを「エコロジカルな自己」と呼びたい。

私たちの生の基礎に、自然や動植物を含めた「エコロジカルなコミュニティー」が存在し、その中に人間のさまざまなコミュニティーが含まれている。だから、共生を考える際に、大自然という基礎のコミュニティーに目を向けて感覚を研ぎ、その要請にも応えるような文明を築いていくべきなのだ。

これは、実は日本文化にもともと根付いていた発想でもある。花鳥風月を愛(め)で、家相や風水などのように自分たちの生きる場を意識してきたからだ。経済発展を追求して自然環境を破壊し、コンクリートのジャングルだけにしてしまうのは、この伝統や美的感覚に反している。

一人ひとりができることは限られているにしても、たとえば自分の住居、近隣や職場が花や植物でなるべく彩られるように努めたり、排ガスをあまり生み出さないような交通機関やエネルギーを用いたりすることはできる。それは二酸化炭素排出量の抑制や空気の浄化に役立つだろう。

このように努めることが、エコロジカルな美徳を発揮することであり、それは倫理的に正しいことだ。令和の時代に、自然環境と共生するという点において、公共的美徳の涵養(かんよう)に努め、麗しい和らぎのある文明の建設を目指すべきではないだろうか。

プロフィル

こばやし・まさや 1963年、東京生まれ。東京大学法学部卒。千葉大学大学院人文社会学研究科教授で、専門は政治哲学、公共哲学、比較政治。米・ハーバード大学のマイケル・サンデル教授と親交があり、NHK「ハーバード白熱教室」の解説を務めた。日本での「対話型講義」の第一人者として知られる。著書に『神社と政治』(角川新書)、『人生も仕事も変える「対話力」――日本人に闘うディベートはいらない』(講談社+α新書)、『対話型講義 原発と正義』(光文社新書)、『日本版白熱教室 サンデルにならって正義を考えよう』(文春新書)など。

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