現代を見つめて(45) 同窓会に姿を見せない友 文・石井光太(作家)
同窓会に姿を見せない友
年末年始に忘・新年会以外で開催されることが多いのが同窓会だ。正月の帰省に合わせて行われるのだ。
記憶に残っている大学のゼミの同窓会がある。
卒業後十数年して、大学のゼミのみんなで集まろうということになり、居酒屋で教授を囲んで酒を酌み交わした。
同窓生とは不思議なもので、どれだけ会っていなくても、顔を合わせた途端に学生時代に戻って話に花が咲く。二十代では恋愛談義、三十代では仕事の話、四十代は子育て、五十以降は介護や病気の話が中心になるそうだ。
この日も、私は教授や同級生たちとよく飲み、よくしゃべった。午後十一時を回り、お開きの準備をはじめた時、突然店のドアが開いて同窓生のN君が入ってきた。
「N君、来るのが遅いよ! 仕事だったのか。でも、会えてうれしいな。また飲みに行こうぜ!」
みんなで代わる代わるN君にそう言って解散した。N君が遅れた理由はわからなかった。
翌日、教授から連絡が来た。あの晩、教授は帰る方向が同じだったN君と二人で話をしたらしい。N君は遅刻の理由をこう語っていたそうだ。
「僕はフリーターなんで、みんなに会いたいけど会う勇気がなく、ずっとぐるぐる外を歩いていました。それでも挨拶だけはしようと、最後に少しだけ顔を出したんです」
頭をガツンと殴られた気がした。同窓会に来られるのは、現在の自分に満足している人たちが大半で、そうでない人たちには距離を感じる空間なのだ。
この日以降、私は同窓会へ行く度に、参加した人より、参加しなかった人のことを考えるようになった。同窓生は“同僚”や“同期”とはちがって相手を蹴落とすライバルではなく、浮き沈みのある人生の中で、いつでも帰ってこられる実家のような存在だと思うからだ。そこに求められるのは相手への思いやりだ。
昨年の終わり、新聞の記事を見て驚いた。N君が出した本が売れていて、写真付きで著者インタビューを受けていたのだ。懐かしさとうれしさが込み上げてSNSでメッセージを送った。
「おめでとう。会いたいね」
すぐにN君から返事が来て「会いましょう」と言われた。新しい年に、楽しみが一つ増えた。
ハッピー・ニューイヤー。
プロフィル
いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)、『原爆 広島を復興させた人びと』(集英社)など著書多数。