『現代を見つめて』(33) 鯨と共に生きるとは? 文・石井光太(作家)

鯨と共に生きるとは?

日本が国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を決めた。これによって約三十年間も中断してきた商業捕鯨が再開されることになった。

これまでも日本政府は欧米からの批判に一貫して「捕鯨は日本の伝統文化」と主張してきた。IWCの脱退によって日本の国際的孤立を懸念する人の中には、「日本に鯨文化なんてない」「諸外国に嫌われてまで鯨を食べる意味がない」と言う人もいる。

実は私もそう感じていたところがあったが、昨年、和歌山県の太地町(たいじちょう)へ行って、認識を改めさせられた。

太地町は日本の古式捕鯨発祥の地として江戸時代の初期から鯨漁の中心を担ってきた。町の人の大半が鯨漁にかかわっており、苗字も捕鯨に関するものばかり。たとえば、「遠見」は鯨を見つける人であり、「脊古(せこ)」は捕鯨船の銛手、「筋師(すじし)」は鯨の筋を取って弓弦を作る人だ。

昭和になると南極海での捕鯨が本格化し、戦時中は米軍の魚雷に狙い撃ちされながらも捕鯨を続けた。戦後の食糧難の時代には、牛肉や豚肉が入手困難に陥ったことから、鯨によってタンパク質を補って日本人を飢餓から救った。

九十歳になる元漁師はこう語る。

「戦後は俺たちが日本人を飢えから救うっていう気持ちで、寝る間も惜しんで鯨を捕っていた。太地町の男子は捕鯨船に乗るのが夢で、新調したスーツで港まで行くこともあったんだ」

戦後に学校給食などで鯨が広まったのは、彼らがマイナス数十度の南極海で、生死をかけて不眠不休で漁をしたからだ。

太地町の人たちは今なお、そんな歴史に誇りを抱いている。家には鯨の髭(ひげ)が飾られ、数珠は鯨の骨で作られ、すき焼きさえも鯨肉で食べる。町おこしも祭りも鯨だ。彼らにとってはアイデンティティーそのものなのだ。

日本全体に鯨文化が根づいているとは言いにくいかもしれない。しかし、日本の中の一つの文化にはちがいない。捕鯨を中止するということは、町のアイデンティティーを丸ごと一つ消し去ることに他ならない。

日本は国際的な圧力に屈して文化の一つを切り捨てるのか、それとも死守するのか、あるいは第三の道を模索するのか。

日本人として、深く考えていかなければならない問題だと思う。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)など著書多数。近著に『世界で一番のクリスマス』(文藝春秋)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)がある。