『現代を見つめて』(27) 汚された「聖域」 文・石井光太(作家)

汚された「聖域」

日大のアメリカンフットボール部で起きた事件が、世の中を騒がせた。試合とは関係のないところで、日大の選手が相手チームの選手にタックルをしかけて怪我(けが)を負わせたのである。日大の選手は、監督とコーチからの指示があったとした。だが、後日、監督とコーチは記者会見を開き、「つぶせ」という発言は認めたものの、「負傷させろという意味ではなかった」「選手の勘違いであり、自分たちに責任はない」と主張した。

会見後も、世間には監督やコーチが言い逃れをしているという意見が多く、批判の声は収まらなかった。そして会見から六日後、関東学生アメリカンフットボール連盟は監督とコーチが意図的に反則行為をさせたと判断し、除名処分にすることを決定。騒動はようやく一段落したのである。

一連の流れを見ていて、大半の人たちは辟易(へきえき)したのではないだろうか。

日本では、権力者が自らの地位を守るために過ちを認めなかったり、事実を歪(ゆが)めたりすることは珍しくない。政治家たちの「記憶にありません」は国会答弁の常套句(じょうとうく)であり、省庁は公文書の改ざんを行い、裁判所は誤審を謝罪しない。企業の隠蔽(いんぺい)体質はよく知られているところだ。結果、損をするのは地位の低い者か、被害者である。

新聞やテレビを見れば、このようなことはほとんど毎日のように報じられている。権力者たちに不信感を抱くのは当然だ。

しかし、だからこそ、人々はそうではない世界にロマンを求める。その一つが、高校野球やアメリカンフットボールをはじめとするアマチュアのスポーツだろう。

学生たちが青春のすべてをかけ、汗水流してスポーツに打ち込む姿は美しい。そこにある勝負の世界は、嘘(うそ)偽りのない純白のものだ。だからこそ、人々はスポーツに熱狂するし、時として選手は政治家以上の英雄となるのではないだろうか。

今回の事件は、それを踏みにじるものだった。日本に残されたわずかな聖域を、大学という教育機関が汚したのだ。

子供たちはどこに純白を求めればいいのか。私たちは子供たちにどこにそれがあると言えるのか。

教育者の大きな責務とは、勝敗の結果より、そういうものをつくり上げていくことだと思う。

プロフィル

いしい・こうた 1977年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件などをテーマに取材し、執筆活動を続ける。『アジアにこぼれた涙』(文春文庫)、『祈りの現場』(サンガ)、『「鬼畜」の家』(新潮社)など著書多数。近著に『世界で一番のクリスマス』(文藝春秋)、『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』(双葉社)がある。