栄福の時代を目指して(5) 文・小林正弥(千葉大学大学院教授)

画・国井 節

栄福学・序説の起点――科学主義の陥穽

「栄福学・序説」を、前回述べた議論を起点として進めてみよう。今の世界では、超越的実在を否定するか括弧(かっこ)に入れて物質世界だけを探求する学問(学問類型B:形而下限定学=けいじかげんていがく)がほとんどだ。この世界に慣れた研究者たちには、このような学問のあり方を自明視するあまり、あたかも不可視の世界は存在しないように考える習慣が身に付いてしまっている人が多い。この発想が教育や社会的通念において広がっているために、宗教や精神性は片隅に追いやられてしまった観がある。

読者の皆様も、17世紀、近代科学の進展の始めに、ガリレオ・ガリレイが天動説(天体が地球の周りを回っているという考え方)を否定して地動説(地球が太陽の周りを回っているという考え方)を提起したところ、ローマ教皇庁による宗教裁判にかけられて異端とされたというエピソードは聞いたことがあるかもしれない。逆に言えば、近代科学によって中世の宗教的世界観が否定されていくことになる。そこで、近代になるにつれ聖書の宇宙観は間違いであることがわかったとされて、唯物論や無神論が広がっていった。

※簡単に言えば、唯物論とは、世界を構成するのは物質であるとして、不可視の精神や魂の存在を否定する思想であり、無神論とは神仏のような絶対者の存在を否定する思想である

実際には、天動説が聖書に明確に書かれていたわけではなく、聖書に基づく解釈が定着していただけだ。だから、これは中世的世界観ではあるが、科学によって神の存在が否定されたとまで言うことは、論理的にはできない。

不可視の実在を科学的に否定することは難しい。自然科学は、物質的な機器で計測したことを基礎として理論や法則が形成されている。ところが、超越的実在は、もともと見えもしないし、測ることもできないとされている。だから、科学的に存在を実証することは難しいが、逆に存在しないことも実証できないわけだ。

ところが、自然科学の成果が増えれば増えるほど、科学的に実証されたことを重視する傾向が強まり、実証されないことはあたかも存在しないように見なす傾向が強まっていった。この結果、超越的実在を否定する唯物論や無神論が隆盛していく。

私は、科学がその適切な範域(はんいき)を超えて拡大解釈されたり影響を与えたりする傾向を「科学主義」と呼んでいる。実際には科学的証明が原理として、できないことまで科学によって結論が出せると思い込む傾向もその一つだ。このような発想が広がった結果、科学技術の大発展の半面、宗教や倫理は衰退していった。本当は科学がこれらを否定しているわけではないにもかかわらず、あたかも否定しているかのごとき幻想が生じたのだ。上記のような学問類型が主流になったのは、この科学主義の結果である。

もしソクラテスが青年哲学徒として甦ったら?―――唯物論的科学者との問答

ここで思い出すのは、哲学の始祖の一人であるソクラテスの有名な「無知の知(不知の自覚)」だ。ギリシャのアテネ北西にあるデルフォイという地のアポロン神殿で、友人が巫女(みこ)に「ソクラテス以上の賢者がいるか」と伺ったところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もいない」という神託が伝えられた。自分が賢明でないことを自覚していたソクラテスは、それを聞いて不思議に思い、神託を探究して反証を得ようとし、政治家、詩人、手工者など、賢者という世評のある人々を訪ね歩いて、善や美、正義について問答を行い、自分より賢い人を見つけ出そうとした。ところが、その人たちは、やがて答えに詰まってしまう。そこでソクラテスは、その人たちは「何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない」から、「少なくとも自ら知らぬことを知っているとは思っていない限りにおいて」、その人たちより「知恵の上で少しばかり勝っているらしく思われる」という結論に至った。つまり、自分の無知(不知)を知っている(自覚している)という点において神託が正しいと納得した、という逸話だ(プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』、久保勉訳、岩波文庫、1950年;「不知の自覚」については納富信留『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』ちくま学芸文庫、2017年)

プラトンというギリシャの大哲学者は、ソクラテスから学び独自の哲学を発展させたのだが、若い頃には、師・ソクラテスの対話を中心にする作品(対話編)を執筆し、それによってソクラテスの言動が後世に伝わっている。それは、いわば哲学的な戯曲のようなものだ。それに倣い、仮にソクラテスが青年哲学徒Sとして甦(よみがえ)ったとして対話を想像してみよう。

東京の北西の地にある、神託で有名な神社で、親しい友人が大胆にも「Sより賢い人はいるでしょうか?」と神に尋ねたところ、巫女が神がかって「Sより賢い人はいない」という神託を下した。Sは、「自分は確かに哲学を通じて真理を探究しているが、世界の真理にはまだわからないことが多い。それなのになぜそのような神託が下ったのだろうか」と訝(いぶか)しく思う。そこで、自分より賢い人がいることを確かめて、そのような奇妙な神託に反論しようと考えた。

そこでまず、Sは科学アカデミーに出向いていって、唯物論を主張する高名な科学者に尋ねる。

S「先生、なぜ、世界には物質しかないと考えているのですか?」

科学者「君はまだ迷信に囚(とら)われているのかい? ラ・メトリやドルバックなど18世紀の思想家が見抜いたように、思考は脳や神経の働きだから、魂というような不可視のものはなく、人間は細胞という部品からなる精密な機械のようなものなのだ」

S「でも、先生が言われているのは、思考や人体をそのように理解することができるという主張であって、不可視の魂や生命は存在しないという科学的証明はされていませんよね?」

科学者「……それはそうだが、私の言ったような説明ができれば、世界は完全に理解できるではないか。それ以上の魂や精神という概念は、作り物で不要なのだ。さて、時間なので私は実験室に行かなければならない。失礼」と述べて、科学者は立ち去ってしまう。

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