今なお続く「戦後」を生きる――失われた国籍と絆の回復へ 「忘れられた日本人」たちの願い(動画あり)

「お父さんに会いたい」。ロサさんは万感の思いを語り、日本国籍の回復を念願している

「祖国」への思い

昨年、発足20周年を迎えたPNLSCは、フィリピンの日系人会と協力し、残留二世の証言に基づく証拠類(父親の写真や親族の手紙など)、本人の出生や両親の婚姻の記録などを調べ、就籍の申し立てを行っている。これまで、離別した父親約700人の身元を見つけ、残留二世300人の日本国籍を回復できた。

しかし、戦争の影響や時間の経過などで証書類の収集が難しい上、差別や迫害を恐れて日本人である証拠を破棄しているケースもあるため、父親を特定して残留二世とのつながりを証明することは困難を極める。PNLSCが外務省の委託で昨年3月に行った調査では、残留二世約4000人のうち、生存を確認できたのは150人ほど。その平均年齢は83歳に達している。

「無国籍のまま他界する残留二世は多く、残された時間はわずかです。戦争という国策に巻き込まれ、苦難の戦中・戦後を生きてきた彼らの救済は戦後処理の問題であり、日本の責務だと感じます。全員の就籍に向けた政府による一括の救済が必要です」と猪俣さんは語る。

ダバオ市の郊外に住むカナシロ・ロサさん(80)は、長年にわたり父親の身元を捜す一人だ。母親の話では、父親はダバオ市で理髪師をしていたが徴兵され、「すぐに戻ってくる」と言い残して消息が途絶えた。

「幼い頃に父と生き別れたから、母親の再婚相手を実父だと信じていました。でも、弟や妹が生まれた後、自分だけが義父に抱きしめてもらえず、誕生日を祝ってももらえなかった」。そう話すと、ロサさんの目から涙が溢(あふ)れた。

その理由を知ったのは、10歳の頃だという。親戚などから、父親は日本人で、とても親切な人だったと何度も聞いた。母親はかたくなに否定したが、叔父夫婦が真実を伝えたことを知ると、父親について語るようになった。

「母が義父に気を使っていると分かったから、私も父の話は避けていました。家庭は居心地の悪い場所になり、小学校卒業後は、17歳で結婚するまで子守などをして一日中働いた。とにかく早く家を出たかったから」

その後、父親について分かったのは、結婚時に取得した洗礼証明書の父親欄にあった「コシエ カナシロ」「日本」という情報だけだった。しかし昨年、PNLSCなどがロサさんの写真や父親が沖縄出身の可能性が高いという調査結果を公開したところ、親族とみられる人たちが見つかった。12月には初来日をし、南城市の親族宅を訪問した。PNLSCは、ロサさんと親族のつながりを証明し、就籍に向けた手続きを進めている。

最後の一人まで

パダダからの帰路、車は西日を浴びながら大通りを北上した。この時、残留二世が就籍を願う理由を尋ねると、聞き取りに同行したダバオのフィリピン日系人会のヘレン・エスコビリャさんがこう話してくれた。

「山奥で隠れるように生き、十分な教育を受けられず貧困に苦しむ残留二世を多く見てきました。就籍できれば、彼らの子どもたちは日本で働くことができる。それは彼らの人生が変わる出来事であり、日本人が受けられる当然の権利です」

車は、沿岸に延びる新しい道路を走り始めた。「これは、日本の政府開発援助(ODA)で造られたものですよ」とヘレンさんが教えてくれた。「1956年に国交が回復し、日本の戦後補償や経済援助が進んで、親日感情を持つ人が増えました」と言う。現在、フィリピン全土には日系四世まで約25万人が暮らしている。来日し、自動車の部品工場や宅配便の仕分けなど、日本人の「便利な暮らし」を支えている日系人も多い。

その一方で、現代の日本人は、120年前に移民を受け入れてもらったこと、日本人が行った虐殺、略奪などによる憎悪を一身に浴びて戦後を生きた残留二世たちが、今も日本人と認められずにいることに目を向けているだろうか。

「歴史の証言者である残留二世たちの声に耳を傾けると、戦争の悲惨さを実感し、決して繰り返してはいけないと強く感じます。彼らが最後の一人になるまで、全力で支援を続けます。そして、これ以上、戦争の被害者を生まないように政治への関心を高めて、平和を守り続ける社会を皆さんと一緒に目指していきたいです」と猪俣さんは語る。

タモガンの犠牲者を悼む納骨堂。奥の密林には、今も多くの遺骨が残っている

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